文豪の書物置き場

文豪タウンが書いた創作物を置いています。本ブログ内の記事はすべてフィクションです。

遠雷

   崖の上から見る景色は、いつも以上に境目がなかった。空には雲一つ無く、海には船一つなく、ただ海が太陽の光を反射し、地平線が広がってるだけだった。風は少し強くて、頭に撒いたタオルをかすかになびかせていたが、肌寒さを感じる程ではなかった。とはいえ、陽射しから察するに、まもなく秋が終わり冬がやってくるのだろう。

   ノエルはいつものように、ケースからアルトサックスを取り出した。

  

 

   あれだけ苦戦したマウスピースの咥え方も、最初は訳がわからなった運指も、今では何も意識しないでできるようになるのだから、人間の学習能力はすごいな、とノエルは吹きなから思った。その一方で、肺活量がなかなか上がらないことに苛立ちも覚えていた。今日もいいペースだったのに、サビを終えてからの間奏からパワーが無くなっていったのが自分でもわかった。

  「いい曲じゃない」

   ノエルが曲を吹き終えて一息つくと、後ろから声をかけられた。振り返ると、画材道具一式を持った黒服の女性が立っていた。ジンジャーだ。

  「お世辞とか言わなくていいよ」

  ノエルはマウスピースを拭きながら声をかけてきた女性に返した。

  「お世辞じゃないわよ。いい曲。演奏に力が足りなかっただけ」

  ノエルは反射的にジンジャーを睨みつけた。しかしそれは、ジンジャーの指摘が正しいことを認めていることを物語っていた。ジンジャーはノエルが睨みつけるのも意に介せず、イーゼルを組み立ててキャンバスを置いた。

  「…‥ここにジンジャーが来るのって、随分久しぶりな気がするけど」

   ノエルは何も言い返せない気まずさを少し和らげようと ーもっとも本人にその自覚はあまりなかったがー ジンジャーに尋ねた。

  「うん、すごく久しぶり。ずっと絵を教えていたし」

  「教えてた?」

   「あ…‥」

  しまった、と言う表情をしてジンジャーは口を噤んだ。

 

 

  一週間ほど前の話。

  ジンジャーのアトリエ兼自宅に、青いベレー帽を被った可愛らしい女性が唐突にやってきた。

  「あの、私、ファンなんです!お願いします、弟子にしてくれませんか!?」

    顔立ちと声から少し幼い印象を受けたが、実際には自分と同じぐらいだろう。そんな想像をしていたジンジャーは、想像だにしなかった申し出に面食らった。

  「……え、ええと、名前は?」

  「ヘイゼルです!」

  ジンジャーは尋ねたが、実のところ、名前を知りたいわけではなかった。弟子入りさせて欲しいという申し出があまりに唐突で、どうしていいか分からなかったというのが正直なところだ。だが、ヘイゼルと名乗ったその女性は、どういうわけか名前を聞いたことを弟子入りの承諾の意ととってしまったらしい。

  「ジンジャーさん、ありがとうございます!!!!!」

  「え、ええっ!?ええと、あたし絵を教えるとかやったこと無いし全然うまくなる保証とかないわよ…‥」

  「大丈夫です!!がんばります!!よろしくお願いします!!」

  「よ、よろしく……」

   あまりにキラキラした満面の笑みで握手を求めるヘイゼルに、ジンジャーは応じるしかなかった。

 

 

   陽が落ちてきた。しかしノエルは、最後まで息が続かないという課題をクリアできないどころか、回数を重ねれば重ねるほど音が荒れていく気がして険しい表情をしていた。

  「…‥ねえ。何か今日いつも以上にイライラしてない?」

  そんなノエルの様子を見兼ねたジンジャーが、ノエルに声をかけた。 

   「『いつも』以上?」

   ノエルはジンジャーの言葉に虚を突かれた表情をした。

   「え、気付いてないの?」

   「気付いてないって……」

   「少なくとも」

  ノエルが自覚していないことをわかったジンジャーは、ゆっくりとした口調でノエルに話した。

  「そのアルトサックスを吹いている時は、いつもより怒っているような感情が出てる。フルートの時はそんな感情は出ていない。なぜかはわからないけど」

 

 

  ノエルの兄、ルーサーはこのアルトサックスをよく吹いていた。ルーサーのサックスは、時には力強く躍動感が溢れて、時には静かで切なさを覚えるようなサックスだった。ノエルはそんなルーサーの演奏が好きだった。自分のフルートは優しくていい音色だとルーサーは褒めてくれたが、それよりもルーサーの、アルトサックスの力強い音色はノエルの憧れだった。

  そのルーサーはこの村にもう居ない。

  ルーサーは「船乗りになって海を渡る」という言葉とアルトサックスをだけを残して海を渡っていった。  

  今もルーサーは、この崖から見える海の何処かを勝手に航海しているのだろう。何時帰ってくるかも分からない。そもそも、もう帰ってこない可能性だって、今生きていない可能性だってある。ルーサーの事を考えていてもぐるぐる思考が回るだけで何も結論に辿りつけない。

  だから、ノエルはルーサーのことを考えるのをやめることにした。

 

 

  ジンジャーの指摘にノエルは言葉を返すことができなかった。ジンジャーの指摘は正確だった。ただ一点、「なぜかはわからない」という点を除いて。だからこそ、ジンジャーの指摘をノエルは黙って飲み込むしかなかった。

  

  「……ジンジャーは、その弟子のヘイゼルに絵の描き方を教えてるの?」

  ノエルはアルトサックスを片付けながら、ジンジャーに尋ねた。

  「……あんまり」

  確かにジンジャーは積極的に絵を教えることはしなかった。しかし、ヘイゼルが弟子入りする時に、「絵を教えられる保証はない」とヘイゼルに明言し、その上でヘイゼルは弟子入りの意志を変えなかったので、ジンジャー自身に落ち度があるわけではない。けれど、最初こそどのように対象をデッサンするのかなど、ジンジャーなりに師匠らしくヘイゼルにレクチャーをしていたが、すぐに教えられるネタは尽きてしまった。

  「それ、ただの付き人なんじゃないの?」

   「付き人って…‥」

  しかし、ノエルの言葉にジンジャーは何も言い返せなかった。確かに消耗品が足りなくなりそうな時はすぐに補充品を調達してくれたし、道具が傷んできた時には新製品のカタログを用意した上で、的確な助言までしてくれた。ヘイゼルのアドバイスで新しく購入した筆のおかげで、今まで苦労していた色塗りが嘘のように楽に塗れた時には、信じられないと思った。

   だからこそ、なぜヘイゼルが自分に弟子入りさせて欲しいと言ってきたのか、ジンジャーにはわからなかった。

  「あれだけわかってるんだったら、わざわざあたしのところに弟子入りなんかしなくたって描けると思うんだけど…‥あれ?」

   「どうしたの?」

   何とはなしにノエル呟いたところで、ジンジャーは気付いた。

   「あたしヘイゼルの描いた絵、見たことない……」

 

 

  「ヘイゼル、描いた絵見せて!」

   アトリエに戻るやいなや、ジンジャーは配達された絵の具のチューブを整理していたヘイゼルに呼びかけた。

「え、ええっ!?」

  突然の呼びかけにヘイゼルはびっくりし、絵の具チューブを落としそうになった。 

  「でもでも上手く描け……」 

  「いいの!とにかく描いて!!」

  ジンジャーは、自分の予想に確信を持った。 理由はわからないけど、ヘイゼルは絵を描くのを怖がっている。

 

 

  「ヘイゼルは、その絵を見てどう思う?」

  「どうって…‥」

  ヘイゼルは言い淀んだ。 ジンジャーに絵を描くように言われ、何も描きたいものがなかったので仕方なく今夜の料理に使おうと思っていたキャベツの絵。上手く描けたとも、だからといって下手くそとも思えなかった。要するに、感想は無かった。

「感想は特に無し?」 

「え、ええっと…‥ないです…‥」

  仕方なくヘイゼルは思った通りのことを正直に述べた。

 「そうよね。いきなり『絵を描け!』って言われて描いたんだからあるわけないわね」

「ジンジャーさん?」 

  感想が無いことを肯定されるとは思わなかったヘイゼルは、少し驚いた様子でジンジャーを見た。

  「大事なことを教え忘れていたから、よく聞いてね。嬉しい、悲しい、怒ってる。なんでもいいんだけど、そう思ったらその気持ちは絶対覚えてて」

  「気持ちを…‥?」

  「そう。……何かを表そうと思ったら、気持ちは避けて通れない。例えば、怒っている気持ちと悲しい気持ち。どっちも味わいたくない嫌な気持ちかもしれないけど、そんな気持ちが助けてくれることがある。絵を描くときや、詩を書くとき、あとは音楽を作って演奏する時もね」

  「ジンジャーさんも、そんな気持ちを持って描いているんですか…‥?」

  「もちろん、その時味わった時のような強い感情はいつまでも持っていられないけどね。つらいし。でも、中にはそんな強い感情をいつまでも持ち続けている人がいるの。そんな人は、いろんな人の気持ちを動かすだけのパワーを持っているんだけど、辛い気持ちに苦しんでる。苦しみながら生み出していく」

  いつになく真剣なジンジャーの言葉を、ヘイゼルは黙って聴いていた。

  「だからね」

  ジンジャーは続けた。

  「ファンを作るの」

  「ファン?」

  「そう。ファンは、自分の気持ちを聴いてくれる人達だと思って。だからその人達を大事にしないといけない」

  ジンジャーはアトリエの奥にある、少しすすのかかった絵を持ってきた。

  「そして、そのファンに最初に自分がなるの」

 

 

  雲一つない青空とどこまでも続いていく地平線。思ったより風が強く寒いため、絵を描く意志は折れたけど、この景色はとても綺麗だとヘイゼルは思った。寒さを堪えながら景色を眺めていると、後ろから声をかけられた。ヘイゼルが振り返ると、楽器のケースを右手に持ち頭に黄色い布をなびかせている男の人が居た。

  「そこ、いいかな?」

  「え……?」

  「そこで楽器の練習をしたいんだけど」

  「え、あ、はいすみません!」

   ヘイゼルは慌てた様子で下がりノエルに場所を譲った。

 

 

  あと一歩が届かなかった。ようやく息は最後まで続くようになった。でも、まだ息が続くだけだとノエルは思った。もう少し、あと少し。でもまだ、届かない。

  「あの、すごいですね!!」

  演奏を聴いていたヘイゼルが、ノエルに声をかけた。

  「すごい?」

  「すごく気持ちがこもってると思いました!こんなに気持ちが伝わってくる演奏ってすごいです!」

  「気持ちが……?」

  「すごく何か待ち遠しい感じがして、でも寂しい感じとかもあって、すごいです!」

  「…‥ありがとう」

   別にそんなこと感じていないけど、とノエルは思ったが、すごいを多用するヘイゼルの言葉に悪い気はしなかった。

  「いつもここで演奏しているんですか?」

  「大体はね。天気が悪かったらさすがにやらないけど」

  「じゃあここに来れば……あ、お名前教えてくれませんか?」

 「ノエル。君は?」

 「ヘイゼルです!ここに来ればノエルさんの曲が聴けるんですね!」

  ああ、彼女がヘイゼルか。確かに青のベレー帽をかぶっていて画材道具も抱えている。ノエルは納得した。

   「ヘイゼルは絵を描くの?」

   「あ、はい、この間まで弟子入りしていたんですけど、クビになっちゃって」

   「クビ!?」

   ノエルは驚いてヘイゼルを見た。あまりにノエルが大きなリアクションを取るのでヘイゼルもつられて驚いた。

   「あ、別に何かしたわけじゃないですよ、本当に。ただ、ジ…‥先生が色んな所を見てこいって」

  「色んな所?」

  「そうしないと、私がいつまでたっても先生のところにいるから、そういうのは良くないって……」

  「ふうん……で、どういうところへ行くつもりなの?」

  「こことか!」

  「え、ここ?」

   ノエルは首を傾げて尋ねた。

  「ここ、すごく見晴らしがいいじゃないですか!それにノエルさんの曲も聴けますし!」

  「自分の好きな場所を探すってこと?」

  「はい!私、嬉しいことがあったら、絵を描きたくなるんです!それがわかったから、そういうところがありそうな場所を探しているんです!」

  ヘイゼルは嬉しそうにノエルに話した。確かに、もう冬になろうとしているのに、風の強いこの場所で薄着なのにも関わらず離れようとする気配がない。ヘイゼルがここを気に入っているというのは本当なのだろう。

  ふと、ノエルは思った。

  「さっき嬉しいことがあったら絵を描きたくなるって言ってたけど、どういう意味?」

  「えっと。気持ちが大事なんです」

  「気持ち?」

  疑問に思うノエルにヘイゼルは説明を始めた。

  「嬉しい気持ちとか、悲しい気持ちとか、怒ったりする気持ちとか、そういうのを大事にしないといけないんです。先生がそう言ってたんですけど、私もそう思います。私は嬉しいことがあったら、それをみんなに『嬉しいことがあったー!』って伝えたいんですけど、そういう時、絵を描きたくなるんです」

  画材道具をカバンから取り出しながらヘイゼルは語り続けた。

  「悲しい気持ちとか、怒ったりする気持ちとか、そういう気持ちになった時に絵を描きたくなることは、私はよくわからないんですけど、でも先生は、悲しい気持ちを大事にして描いているって言っててすごいなあって」

  「悲しい気持ち……」

  「それから中には、すごく怒った気持ちを抱えている人もいて」

   怒った気持ち、 という言葉にノエルは少し眉を動かした。

  「そんな人はいろんな人の気持ちを動かすパワーがあって、でもその人は苦しみながら生み出しているって」

  「君もそう思う?」 

  ノエルが問いかけた。

  「私は……そんな人に会いたいです。そんなに苦しんでいるのに、人の心を動かす作品を作れるなんて、すごく立派な人だと思います。……先生がそうでしたから」 

 

 

  いつのまにか、東側に黒い雲が集まってきていた。

  「……これ、雪が降るかもね」

  「雪降るんですか!?」 

  「何でそんなに嬉しそうなの」

   東の黒い雲を嬉しそうに見つめるヘイゼルにノエルは尋ねた。

  「楽しいじゃないですか!雪ダルマとか、ソリとか!」 

  雪が降ると決まったわけでもないのにはしゃぐヘイゼルに少し呆れた様子で、ノエルはアルトサックスをケースに仕舞った。

  「帰るんですか?」

  「天気が悪くなりそうだからね」

  「あ、じゃあ食堂に来ませんか?」

  「食堂?」

  「最近、住み込みで食堂でアルバイトしているんです。美味しいですよ、お好み焼きとか、きんぴらゴボウとか、エスカロップとか!」

  ノエルはヘイゼルの紹介してくれた料理がどんな料理か想像がつかなかったが、ちょうど空腹を覚えていたので、ヘイゼルの申し出には少し心が動いた。

  「…‥わかった。行くよ。で、お願いがあるんだけど」

  「はい、何ですか?」

  「ヘイゼルの絵、見せてくれない?」

   ジンジャーの弟子だった人が、嬉しい時に描く絵ってどんな絵なんだろう。ノエルはそんな好奇心から聞いてみた。

  「…‥は、はい、ありがとうございます!!!」

    ヘイゼルは顔を紅潮させて、ノエルに感謝の言葉を伝えた。

  「え、え、何でそんなに赤くなるの…」

  「だって、ファンになってくれるかもしれないと思ったら嬉しくて……」

  「ファン……?」

   ノエルはヘイゼルの絵をちょっとした好奇心で見たいと思っただけだ。実物を見たことが無いので、ファンになるかどうかは全然わからない。だが、あまりに嬉しそうなヘイゼルに対して、冷静に事実を伝えることが今のノエルにはできなかった。

  「……まあ、ファンが増えるのはいいことなんじゃないかな。自分の作品を見てもらえるのは励みにもなるし」

  「本当ですか!?じゃあ、私もノエルさんの曲これからも聴きます!」

  「えっ……」

   一般論で話を誤魔化そうとしたノエルに対してヘイゼルが告げた言葉に、ノエルは完全に虚を突かれた。

   「私、ノエルさんの曲のファンです!」

  全力で告げるヘイゼルに、ノエルは「お、おう」と顔で表現した。どんな顔をすればよいのかわからなかった。

 

 

  「あ!」

  「雪だね」

   食堂へ向かう道中、ノエルの予想通り雪が降ってきた。

  「これ積もるんじゃないですか!?」

   「積もりそうだね」

    はしゃぐヘイゼルにノエルは冷静に答えた。例年より降るペースが早いし、水っぽさが少ない。このペースで降れば明日の朝には雪だるまが作れるくらいにはなるだろう。でも、それをヘイゼルが知るのは明日の朝でいいと思い、ノエルは何も言わなかった。

  「お腹が空いてきたね」

  「私もです。お好み焼きもきんぴらゴボウもエスカロップも、すごく美味しいんですよ!楽しみにしててください!」

  「そんなに食べられないよ」

  「大丈夫です。ファンになりますから、食べられます!」

   ヘイゼルの言っていることは無茶苦茶だったが、ノエルが空腹で料理を楽しみにしていたのは事実だった。

  (ファン、か……)

  とにかくルーサーを負かしたい一心だけで演奏していたから、誰かのファンになる、ということを全然考えてなかったな、とノエルは思った。ルーサーのことを考えないようにしていたけど、結局ルーサー以外のことは考えてなかったのと同じだった。

 

 

  ファンになれるといいな。

  ノエルはヘイゼルと食堂の門を叩いた。

幻のパンと長いスプーン 【パンジーさん100st記念小説】

 パンジーさん100ステージ記念として寄稿した「幻のパンと長いスプーン」を、一部改訂して投稿します。改めて、パンジーさん100stおめでとうございました。今後のご活躍を楽しみにしています。

 また、作中のヒルダのセリフは北海道弁ですが、こちらの監修はまどかさん (@madoka0808) にお願いいたしました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

【拝啓 パンジー様

  6月に入ったのに、もう梅雨明けが待ち遠しいと思っています。エスターです。
  先日はお見送りの会を開いてくれて本当にありがとう! すごく嬉しかったです! こっちに来たらステファンと会えると思ったんだけど、ステファンはこっちの修道長の付き添いでやっぱりしばらくいないらしいの……残念。
  あっ、御手紙したのは、面白そうな本を見つけたからなの。この間古本屋さんで見つけた本で、見たことのないパンが一杯! ただ、レシピは昔の言葉っぽくて、よくわからなかったんだけど……(汗)。パンジーはこんなパン見たことある?参考になるかな、と思って送るね。まあ本当は、このパン美味しそうだから作って欲しいなー、なんて思って(でも書いているうちに、本当にパンジーのパンが食べたくなっちゃったよ―)。
まだ蒸し暑い日が続きそうだし、デイジーの心配ばっかりしないで、パンジーも身体には気を付けてね。また手紙を書きます。それでは、また。

                                                                                                                                  敬具 エスター】

  かつて村の中央広場の近くに酒場があった。それなりに繁盛していたのだが、主人が都合で村を離れてしまい酒場は閉店してしまった。酒場が無くなり村の人々が寂しい思いをしていたある日、村長のもとに食堂を作らせて欲しいと申し出があった。申し出たのは、北国から来たという訛の強い女性、ヒルダ。ちょうど酒場が無くなったタイミングで、代わりになればと考えた村長はヒルダの申し出を受けた。
  ヒルダの作る「エスカロップ」や「クリームシチュー」といった独自の手料理は、珍しがられつつもその味や豊かなバリエーションから、次第に人気を博し根付いていった。ヒルダの訛は、珍しがられつつも安心できると評判になり、酒を飲みながらヒルダと話すのを楽しみにする村人が増えていった。
ヒルダには食堂の主人に必要な才覚があった。
  かくして、食堂【エスカロップ】は、村人たちの胃袋を満たす憩いの場となったのである。


「……いいやー、見るの初めてだ、こんなパン」
「そっか。ありがと」
  エスカロップのカウンター席で夕飯のクリームシチューを食べ終えたパンジーは、エスターから届いた本をヒルダに見せていた。
「しかし、ずいぶん古い本だな。どこで手に入れたんだこりゃ?」
「エスターが送ってきてくれたんだよ」
  そのパンジーの隣でキンバリーと食事をしていたルーサーが本を覗きこんだ。その古本は様々なパンの絵が表示に描かれていることから想像できる通り、パンのレシピ集だった。パンジーが知らないパンも少なくなく、早速作ってみよう! と意気込んでみたものの、レシピが書かれている言葉がパンジーには読めなかった。若干今の時代とは古い言葉かつ別の地方の言語だろうと見当はつくものの、正確な記述がわからないため簡単には作れそうになかった。
「ルーサーとキンバリーは、こういうパン見たこと無い?」
「知らねーです。でもこれ、なんだかサクサクしててすげー美味しそうです」
「俺も見たことねえけど、本当に美味そうだな」
「そだね、フルーツさ乗っかってるの珍しいし、パンっちゅうかお菓子みたいだべ」
「そう思ってデイジーに聞いたんだけどね。デイジーも知らなかった」
  パンジー達が見たことの無いパンでも、この村の外から来たヒルダ達なら知ってるかもしれない。そんなパンジーの一縷の望みは残念ながら叶わなかった。情報収集を諦めてパンジーが三人に礼を述べて会計をしようとした時、エスカロップに客が来た。その客を見てヒルダが驚きの声を上げた。
「やー、デニちゃんしばらくぶりだね。なしたのさ!」
  その声に残りの三人が客の方を向くと、ルーサーとキンバリーも驚きの声を上げた。
「え、デニスさん……」
「領主様が、何でこんなところに……」
「こったらとこって何さ」
  ヒルダがキンバリーに膨れたが、パンジーは1人状況がわからずきょとんとしていた。

 

「デニちゃんさ、デニス地方の三代目領主様なんだわ」
  ヒルダがパンジーに説明した。
「所用がございましてこちらに滞在しております。ところでヒルダさん、デニちゃんというのは……」
「ああごめんごめん、昔の癖さまだ抜けねぇんだわ」
  困った顔で勘弁してほしいというデニスに、ヒルダが笑いながら訂正した。
「所用ってなんですかー?」
「お前そういうこと聞くなよ、人がぼかしてるんだから」
  デニスに尋ねるキンバリーをルーサーが注意した。とはいえ、内心ルーサーも内容を知りたがっていたので形だけの注意ではあった。
「あら、いよいよプロポーズするのかい?」
遠回しに聞こうとしたルーサーとキンバリーの思惑をよそに、ド直球に聞いたヒルダの言葉にその場の全員が噴いた。
「えええ!!!」
「ぷ、プロポーズするんですか!?」
「マジかよ!!」
「いやいやいやいやいや、べべべ別にそんなことをしに来たわけでは!!」
  驚くパンジー達にデニスは必死で弁明した。しかしまだ酒を飲んでもいないのに傍から見ても分かるくらいに紅潮した顔を見れば、図星であることは明らかであった。
「本当に違うんですよ、本当に……!」
  パンジー達に向って否定するデニスだったが、パンジーの側に置いてあった本を見て動きが止まった。少し思案した後、デニスはパンジーに尋ねた。
「……すみません、その本は?」
「え、これですか?」
  パンジーはデニスに表紙を見せた。瞬間、デニスはパンジーに駆け寄り尋ねた。
「その本、見せてくれませんか!?」


「デニちゃ……デニスさんのおじいさんさ書いた本なのかい?」
「はい、間違いなく私の祖父であるデニス1世が書いた本です。パンジーさん、どうしてこの本をあなたが?」
  デニスはパンジーから本を受け取ると、1ページ1ページを丁寧にめくり、感慨深げに目を通しながら尋ねた。
「参考になったらって、友達が送ってくれた。古本屋で見つけたって言ってたけど」
「そうでしたか……驚きました。まさかこんな形で見つけられるとは」
「この本に乗っているパン、デニスさんのおじいさんが作ったってことですか? すげーうまそうです」
「はい。我がデニス家は代々料理に関して造詣を持ち、創作を絶やさぬべしと家訓にありますので。祖父はパンに造詣が深くレシピを書籍としていたらしいのですが、自宅にも書籍の断片しか無くレシピが残っていなかったんです」
「デニスさんもパン沢山焼いてるですか?」
「いえ、私はこんにゃくの方が好きなのでこんにゃく、はるさめを中心とした料理を作っております。通常のこんにゃくやはるさめも良いのですが、ほかの味と組み合わせることより、こんにゃくとはるさめのポテンシャルを引き出すことができることを発見したのです。例えばカレー煮込みにカルボナリ風などは、はるさめと組み合わせると……。」
「……ええとデニスさん、このパン知ってる?」
  デニスの話が長くなりそうなのを察したパンジーが、本の表紙に描かれていたパンを指さしてデニスに尋ねた。パンジーが一目見て作りたいと思ったものの、作り方の詳細がわからずヒルダ達に聞いていたパンだった。
「これは……ああ、デニッシュですね」
  ページをめくり、パンジーが指さしたパンが描かれているページを開いてデニスが答えた。
「祖父が一番最初に作ったと言われているパンです。デニス地方で生まれたパンだから、デニッシュ、と」
「じゃあ、このパンの作り方もわかりますか? レシピが読めなくて……」
「ああ、確かにこれは読めないでしょうね。単位が古いし、言葉も方言がかなり混じっています」
  デニスが苦笑しながら答えた。
「そうだったのか……」
  肩の力が抜けたパンジーがため息をついた。
「ですが解読すればレシピは再現できると思いますよ。パンジーさんはパンを良く焼いているのですか?」
「焼くも何も、パンちゃんさ村一番のパン屋さんなんだわ。うちのパンもぜーんぶパンちゃんとっから仕入れてるも」
  ヒルダの返答を聞くやいなや、
「パンジーさん!」
  パンジーの両手を握りしめてデニスが迫った。
「な、何ですか?」
  驚き息を飲むパンジーにデニスが言った。
「お願いします。デニッシュを作ってくれませんか!? できることがあったらなんでもしますから!!」

 


  デニスの祖父であるデニス1世がデニッシュのレシピを発行してから半年後、戦争が始まった。当初は中立を保っていたデニス一世だったが、拡大していく戦火にデニス地方も無縁ではいられず参戦せざるを得なくなってしまった。結果としてデニス地方もダメージを負い、デニス1世が発行したレシピは戦火で失われ、デニッシュを作っていたパン職人も亡くなってしまった。そのため、デニスにとってデニッシュは話に聞くことはあるけど実物を見たことがない「幻のパン」として存在し続けた。
  その幻のパンのレシピが、目の前にパン職人と共に在る。しかも聞けばこの村一番のパン職人。デニスはなんとしても、祖父の残したパンがどのようなものだったか知りたかった。パンジーにとっても、デニスの申し出は未知のパンを作るという、パン職人としての血が騒ぐ願ってもない申し出だった。
「喜んで!!」


  こうして翌日からパンジー達は早速デニッシュを作り始めた。「達」というのは、パンジー以外からもデニッシュ作りに協力したいと申し出があったからだ。
「パンとお菓子が合わさってるのって、絶対美味しいよ! 私も手伝う!」
「私もこれ、食べてみたいべさ!」
  「幻のパン」に惹かれたのはパン職人のパンジーだけではなく、菓子職人のデイジー、食堂の女主人ヒルダも同じだった。デニッシュに乗せるフルーツはデイジーが用意し、細かい作業や下準備はヒルダが手伝った。
「店番ぐらいなら俺とキンバリーでやるぜ。報酬はデニッシュな」
「すげー楽しみです」
  そしてデニッシュに釣られたルーサーとキンバリーが、パン屋の店番を手伝ってくれたおかげで、パンジー達はデニッシュの試作に集中できた。
「……皆さん、本当にありがとうございます。デイジーさん、フルーツは何でも合うと思うのですが、チェリーを作ってくれませんか? ちょうどチェリーも手に入りましたので」
  デニスはレシピを解読しつつ、デニッシュづくりに必要な材料、機材を調達していった。
  デニッシュというものを一度食べてみたいという六人の願いを乗せて、パンジーはレシピと格闘しながらデニッシュを作り続けた。

「出来立てのチェリーデニッシュをキャシーさんに食べさせたいって、やっぱりデニスさんはキャシーさんの事が好きなんですね」
  デニスの話を聞いたデイジーが、微笑みながらデニスに尋ねた。
「やっぱりって何ですか、私はキャシーさんがチェリーが好きだというから、好意とかそういうのではなく……」
「じゃあデニスさんはキャシーさんとチューしたくねーですか?」
「え!? いや、それはそのそのなんというか」
「おいキンバリー、直球過ぎるだろ」
  キンバリーをルーサーが注意するが、もちろんルーサーが内心思っていることは
(いいぞキンバリー、もっとやれ)
  である。
  そんな4人をよそに、パンジーとヒルダとは渋い顔で試作品のデニッシュを睨んでいた。
「サクサク感さないっしょ」
「うん、そのせいでバターの油が余計にしつこくなってる」
  パンジーの言う通り、焼きあがったデニッシュは味こそ悪くないものの、バターの油がべっとりと生地に染みこんでしまっていた。噛むと油を噛んだかのようなしつこさが口の中に広がり、一口食べるだけで胸焼けがしそうだった。
「ねぇねぇこれさ、バターの分量さほんとに合ってるのかい?」
  首を傾げてヒルダがデニスに尋ねた。
「合ってます。私も多いと思いますが、レシピ通りだとこの分量です」
「クッキー作る時だったらこれくらいバター使うけど、パンでこんなに使うのかなあ?」
「なしてこったらバターばのっつり使うんだべか? パンてほどんと毎日食べるべさ。こったらバターば使ったら、太るんでないかい?」
「推測ですが、寒いから脂肪分の多い食べ物が好まれたんじゃないかと……」
「寒い?」
「あ、パンジーさんは存じ上げないかもしれませんね。デニス地方は山に囲まれた雪国で、冬はここよりずっと寒いんです。ですから体を温めるエネルギー源として、バターは重宝するのですよ」
「ここよりずっと寒い……」
「あっ!!」
  パンジーとデイジーが同時に叫んだ。
「暖かすぎない!?」
「そうだ! 寒い所でやらないといけなかったんだ!」

 

  まだ日も出ていない、深夜と早朝の境目とも言うべき時間。パン工房から少し離れた狭い一室にパンジーとデイジーとヒルダとデニスはいた。
「ちょっと寒いかも……。お姉ちゃん、薄着で大丈夫?」
「全然平気。捏ねてるうちに体も温まってくるだろうさ」
  部屋ある巨大な氷が室温を下げていた。普通なら手に入らない巨大な氷が手に入ったのはデニスの資金力のおかげだった。とはいえ、最近の気温のことを考えると氷はすぐに溶けてしまうだろう。手早く作らないといけないことに変わりはなかった。
  生地もバターも準備して伸ばしてある。後は温度が上がらないうちに生地を整形し焼く。いかに生地やバターに熱を伝えず、生地の整形を手早く行うかが勝負だ。
「デイジー、ヒルダ、始めるよ」

  とにかく生地やバターに熱を伝えないこと。そのためには自分の手の温度も下げる必要があると考えたパンジーは、桶に貼った氷水に両手を漬けた。5秒、10秒、15秒、20秒。次第に手に鈍い痛みを覚え、やがて手の感覚が鈍くなっていく。指が自分の意志で細かく動かせるギリギリのタイミングで桶から手を引き上げた。
  ここからは時間との勝負だ、とパンジーは思った。
  正方形に整えたバターを伸ばした生地の上に重ね、生地を四方から折りたたみ正方形の形を保つように慎重に織り込む。形ができたら、次は伸ばし棒で慎重に伸ばしていく。薄くなったら裏返しにして、デイジーが打ち粉をまぶしてから同様に伸ばしていく。打ち粉を刷毛で払い三つ折にし、もう一度伸ばす。伸ばし終わった生地をバットに入れ、冷暗所に入れる。

 

「これで1セットでだね」
  パンジーが生地を冷暗所に入れるのを見てデイジーが言った。
「よし、しばらく休憩かな」
「パンちゃん、手ぇ大丈夫?」
「これぐらい全然大丈夫だよ」
  パンジーの手を擦りながら心配するヒルダに、パンジーは気丈に言った。
「パンジーさん……」
「デニスさん、大丈夫です」
「……ありがとうございます」
「お礼はデニッシュがちゃんとできてからです」


  寝かせた生地をもう一度伸ばし、先程と同じように伸ばして再び冷暗所に入れ、しばらく時間を置いて生地を取り出した。 デニッシュ大に生地を切り、切れ目を入れて折りデニッシュの形を作り、その上にチェリーの甘煮を乗せたら濡れた布を被せ二次発酵を行う。作業自体はそれほど難しくはなかったが、かかる時間にパンジーは珍しくじれったさを覚えた。日常、パンを作っていてパンを作る工程に慣れているはずのパンジーですらもどかしさを覚えているのだから、他の三人はもっと落ち着きが無くなっていた。といってもできることもないので、4人は首を長くして待つことしかできなかった。
  一時間が経ち、布を取り上げた。
  生地はきちんと発酵している。バターは溶け出していない。
「……いける」
  生地に仕上げの卵を塗った。いよいよパンを焼くところまできた。パンジーはパン工房に戻りオーブンの準備を始めた。
「お姉ちゃん、生地ここに置くよ!」
  生地の入ったバットを運んできたデイジー達が机にバットを置いた。パンジーはプレートに生地を乗せ、オーブンにプレートを入れた。210度程度の温度で15分間。焼き加減は最後の難問で、温度が少し違うだけで、時間が少し違うだけでパンが台無しになってしまう。
「ここまで来たんだ。お願いだから拗ねないでくれよ……!」
  15分間の最後の戦いだった。
  小麦の焼ける良い匂いが漂ってきても、生地がキツネ色に色付き始めても、パンジーは気を張りながら焼きあがる生地と温度計を見つめ続けた。

「3……2……1……ゼロ!!」
  デニスのカウントダウンゼロの合図と共に、パンジーはデニッシュを置いたプレートを窯から引き上げ、作業台の上に置いた。
「わー! わや美味しそうだべさー!」
「お姉ちゃん、早く食べようよ!」
「……ああ!!」


  プレートの上のデニッシュを皿に移し、4人はチェリーデニッシュを一口食べた。4人の表情は様々だった。
「これ、美味しいよ! お店で出そう!」
  満面の笑みを浮かべてパンジーに勧めるデイジー。
「うわ、ほんっとに美味しい! こったら生地ばサクサクするんだね! すごいべさ!」
  驚きの表情で一気にチェリーデニッシュを平らげるヒルダ。
「……!!」
  生地だけの感触を味わい、次いでチェリーと一緒に食べてからガッツポーズをするパンジー。
  そして、一口食べて言葉を失うデニス。

「……パンジーさん。本当に本当にありがとうございます。きっとこれです。間違いありません」
「うん、本当に美味しいよ、これ。……おじいさん、本当に腕のあるパン職人だったんだ」
「そうおっしゃっていただき、恐縮です。祖父の願いを叶えていただいて本当に嬉しく思います」
「おじいさんの願い?」
  デイジーに、デニスは本のあとがきを見せて説明した。
「祖父の願いは、このレシピを広めて1人でも多くの人がパンの美味しさを知ってもらうことでした。そして、『自分の作ったパンを、まだ見ぬ子孫に食べさせたい』と。祖父が自分で作ったパンを食べることは叶いませんでしたが、今、こうしてデニッシュを食べています。私は、間違いなく祖父の作ったパンを食べられているのです」
「デニちゃん……」
「本当にありがとうございます……」
  デニスはパンジーに礼を述べ、嗚咽をこらえながらチェリーデニッシュを一口一口味わっていった。


「あの、パンジーさん。折り入ってお願いがあるのですが」
  デニッシュを食べ終えたデニスが、パンジーに声をかけた。
「何ですかデニスさん?」
「勝手なお願いであることは重々承知しておりますが、この本を私に譲ってはいただけないでしょうか。お金ならおっしゃっていただいた通りお支払いしますので、どうか……」
「うん、いいよ」
「……へ?」
  デニスにとって、この本はただのパンのレシピ集に限らず祖父の形見でもあった。さらにデニス1世の残したレシピとしては現存するものも多くなく、希少価値も高かった。それだけに、資産に言葉、態度といったありとあらゆるを手段と使って、デニスは祖父のレシピ集を取り戻すつもりでいた。しかしパンジーの気のないあっさりとした返答にデニスは完全に肩透かしを食らっていた。
「デニスさんさ一番持ってるのいい人だもね」
「解読できないからレシピとしても私達使えないし、読める人のほうがいいよね」
「ええっと、その…」
「あ、デニスさんこれ再版してくれませんか? レシピ読めるようにしてくれるとすごく嬉しいんだけど」
「……わ、分かりました。では、再版を約束します。その際には献本させていただきます、パンジーさん」
「ありがとうね、楽しみにしてるよ。プロポーズもうまくいくといいね」
「は!?」
  本の譲渡に関する交渉で虚を突かれたデニスは、パンジーの突然の切り込みに返答ができなかった。
「あ、ええと……」
  純粋に自分を励まして微笑んでいるパンジー見ていると、デニスは必死でキャシーへの想いを否定し隠していることが、何かすごく後ろめたいことのように思えた。
「……はい」
  デニスは短く答えた。



  まだ日も昇らない夜明け前。パン工房の鍵を開けて中の匂いを嗅ぐように大きく息を吸い込んだ。まだパンは焼いていないが、パンの焼ける匂いがした。パンを焼いた時の匂いがこの工房に染みついたのだろう。この匂いは、パンジーがこれまてパンを焼いてきた記録であり記憶だった。
  パンジーは自宅から持参した本を机の上に置き、しおりを挟んだページを開いた。
「生地は折り目正しく丁寧に折ろう! 」
「いろんなフルーツを乗せても美味しそうだね~」
  開いたページには、二人の可愛らしい女性と、美味しそうな「チェリーデニッシュ」のイラストが描かれていた。
(さあて焼こう!!)
  今日もまたパンを焼く一日が始まった。


【拝復 エスター様
  初夏というには陽射しが強すぎて、正直参ってます。いかがお過ごしでしょうか。
  勉強は順調?この間は本ありがとう。びっくりしたんだけど、本の元の持ち主に会えた。】

「……80歳?」
「びっくりするでしょ?とても80に見えないでしょ?」
「何でバラすのハイラム」
「え、じゃあ娘のドリスさんって……
「お母さんが60歳の時の子供よ」
「そ、そうなんですね……はは……は……」
「このパン、キャシーおばさんが昔作ってくれたチェリーパイみたいで美味しいですよ、デニスさん」
「昔、チェリーパイをよく作っていたとお話していたのを覚えていてくださったのですね。ドリス、ハイラムが3時のおやつに喜んで食べてくれて。とても懐かしいです。本当にありがとうございます。……デニスさん、顔色がなんだか悪いようですけど大丈夫ですか?え、ちょっと、デニスさん、デニスさん大丈夫ですか!? すごい熱……ドリス氷水用意して、ハイラム、マドックを急いで呼んで!!」

 

【あのパン、デニッシュって言うんだって。悪戦苦闘したけど、デニッシュを作れた!! この本の著者がデニス地方の領主さんだったから、そこからついた名前らしいよ。まさかその元の本の持ち主がお孫さんとは思わなかったけどね。おじいさんのパンを食べたいって願いを叶えられたから自慢しとく(笑)。結局、あの本は持ち主に返したんだけど、再版して献本してくれるって言うから、それを楽しみにしている。レパートリーも増えたし良かったよ。本当にありがとう。デニスさんは作ったデニッシュを大事に抱えていったけど、多分好きな人に食べさせたいんだと思う。】


「ごめんください、デニッシュをいただけますか?」
テイラー、最近良く来るな。パンジーに惚れたか?」
「おやおや、あっさりバレてしまいましたね。はいそうです」
「な……」
「おいマジかよ、冗談のつもりだったのに」
「私は本気ですよ」
「じゃあチューしたいですか」
「キンバリー、チューからいい加減離れろ」
(いいぞキンバリー)
「はい、キスしたいです。好きですから」
(マジかよストレートに返しやがった)
「うるさいテイラー! チェリー、ラズベリーどっちだ!」
「どちらもです。パンジーさんの作るパンは美味しいですから、ふふ」

 

【まあそうだよね。自分の作った料理を好きな人に食べてもらうの、ほんとうに嬉しいもんだよ。だからきっと、ステファンもエスターに朝ご飯作れなくて寂しいんじゃないかな。僕の場合は、世話焼きの部分もあるのかなとちょっと思ってるけど(いや、こういうのは自分で言うことじゃないか……)。】


「ジャンヌいらっしゃい、今日は?」
「店のレーズンパンあるだけください。レーズンパン以外要りません」
「レーズンパンだけでいいの?珍しいね」
「今日はレーズンパンの日ですから」
「そ、そうなんだ……」
(なんでこんな殺気立っているんだろう……)
「団長にはレーズンパンでも食べさせておけばいいんです」
(喧嘩か……)

 

【時には喧嘩したりとか、仲違いしたりとかもあるんだけど、ぶつかるのも怖がっちゃいけないんだ。自分を大事にしなきゃいけないけど、他のヤツを大事にしたいんだったら、なおさら、ね。中には自分そっちのけで他のヤツのことを大事にしたいと思ってるようなヤツがいる。というより、この村には自分そっちのけで他の人の心配をするヤツが多い。】

 

「デニちゃんから本さ届いたのかい! 見せて見せて!」
「まさかこんなに早く届くとはね。びっくりだ。あ、ヒルダによろしくだって」
「やいや、たいしたポップになってるしょ。……この絵パンちゃんとデイちゃんでないかい?」
「やっぱりそうだよね、これ。このエプロン姿、お姉ちゃんそっくりだもん」
「あ、そいえばこないだテイラーさ嬉しそうにエプロン仕立ててたんだわ。パンちゃんさプレゼントするんでないかい?」
「はあ!? いいよ別に、このエプロンで! 自分の服もろくに手入れできない奴のエプロンなんて!」
「手入れ?」
「昨日店に来た時、左腕の袖の一番端のボタンが糸緩んで取れかかってたんだよ。仕立屋のくせに!」
「え、そうだったの?全然気付かなかった」
「へー、デイちゃん気付かねかったのにパンちゃんさ気付いたのかい。よーく見てるべさ」
「……い、いや別にジロジロ見てたわけじゃ!」
「『ああこれは失礼、紺屋の何とやらですね』だべ?」
「いいよ真似しなくて!!」

 

【そんなヤツらが互いに相手の心配をして大事にするから、結果的に皆が大事にされている。
みんな、本当にいい奴らだ。ついでに言うと、僕はエスターのことを、一番自分のことをそっちのけで他の人の心配をするヤツだと思ってる。
だから、いつでも帰っておいで。エスターがリクエストした、デニッシュを焼いて待ってるよ。
                                                                                                                             敬具 パンジー】

また苔が生えるその日まで(5) 魔女公演と人狼伝説

 お気に入りのお菓子を食べられるというのはとても幸せなことだ。

 フワフワと口の中で広がる楽しい食感のマシュマロ、サクッとした外側の皮と中のじゅわっとした風味のマカロン、甘い中にも芯のあるビターな風味が心地よいチョコレート。デイジーはそんなお菓子の華やかさと美味しさを愛していた。食べるのはもちろんのこと、自分でお菓子を作ることも大好きだった。好きが高じた結果、彼女は菓子屋を開いた。最初こそ菓子を作る以外の店は繁盛し、常連客もできた。

 その中に、毎日のように通ってくる男がいた。彼は足繁く菓子屋に通い、店の菓子を食べ絶賛した。それがデイジーに好意を伝えるためのアプローチだとわかったのは、彼と結婚した後だった。

 こうしてデイジーは、少し体重の増えた夫、ダンカンと共に今日も菓子屋を営んでいる。

 

 

 お気に入りの本を没頭して読めるというのはとても幸せなことだ。

 最後の一段落まで油断ができないミステリー、自分まで胸の高鳴りを抑えられなくなる恋愛小説、違う世界へと旅立たせてくれるファンタジー。貸本屋の娘として生まれ育ったシフォンにとって、読書は日常であり生きることに欠かせないものであった。父親の亡き後、貸本屋稼業を引き継いだシフォンは父親の大事にしていたカラーを引き継ぎつつ自分のカラーを出していき、貸本屋を繁盛させていった。

 ある日、とある恋愛小説についての推薦文が良いと褒められ礼を述べたところ、その相手は当の恋愛小説の作者だった。シフォンの素直な気持ちが当の作者に見られるとは思わず、シフォンは気恥ずかしくもあり嬉しくもあった。それが、夫のゴーシュとの出会いだった。

 こうしてシフォンは、締切に追われる夫、ゴーシュの執筆を手伝いつつ今日も貸本屋を営んでいる。

 

 

 お気に入りの本を読みながらお気に入りのお菓子を食べるというのは、とてもとても幸せなことに違いない。そう考えたデイジーとシフォンは意気投合した。結果、二店の近くにある広場に菓子を食べるためのオープンスペースができた。

 オープンスペースには人が集まり始め、人が集まるに従ってイベントをしたいという申し出が二人のところに来始めた。こうして、オープンスペースは不定期に様々なイベントが行われる、娯楽と憩いの場としての地位を確立したのである。

  オープンスペースに行けばとりあえず暇は潰せる。二度寝して正午過ぎに目を覚ましたキンバリーは、メイソンからクーポンをもらったことを思い出し、オープンスペースへ足を運んだ。

 

 

 「かくして、初日の議論と投票の結果、声を失うことになったのは天秤座の魔女、キャシー・ザ・ライブラでした。お互い涙を堪え切れず、アイヴィーと抱き合うキャシー。しかし、シレンティウムの魔法を浴びたキャシーは悲嘆することも激励することももはや叶わないのです。声を失ったキャシーは、自分の心が狭い狭い檻に閉じ込められたような感覚に襲われました。

 果たしてキャシーは狼の女王に乗っ取られた人狼だったのか!?まだ魔女たちの戦いは始まったばかりです。次回『エスターの涙の理由』、ご期待下さい!!!」

 
 
 オープンスペースの今日のイベントは、メイソン紙芝居のプレビュー公演「星降る歌と13人の魔女」。菓子屋で一定額以上の商品を購入した人は誰でも見られるという形式で始めた紙芝居は、メイソンの名人芸とも言える語り口と相まって人気を博していた。今回はゴーシュが脚本を手がけていることもあって、プレビュー公演がオープンスペースで行われていた。
 「キャシー…………!!」
 「どう考えても人狼じゃねえよ………」
 「メイソン、次回いつやるの!?」
 公演を観ていたドリス・キース・キンバリーは皆涙ぐんでいた。三人の様子を見る限りでは、多少の微修正を加えるだけで本公演を始められるくらいには仕上がっていると考えて良いだろう。
 「続きはあそこの人が書いてるから、せっついたらなにか出てくるかもよー」
 紙芝居の評判に満足しつつもどうやって仕上げていこうかと内心考えながら、メイソンは後ろで見守っていたゴーシュを指差した。

 「今まさに書いているところだからね、楽しみにしていてよ」

 「はい!」

 満面の笑みでゴーシュがキンバリーに答えるのを見て、シフォンはデイジーに尋ねた。

 「デイジー、ビターチョコレートって今日ある?」

 「ありますよ。ストロングチョコレートでよろしいですか?」

 「うん、一番強いのを頂戴」

 シフォンはデイジーに代金を支払い、ストロングチョコレートを買った。ああやってゴーシュが答えるのはどういう時は、シフォンは知っていた。まだ一文字も書いていない時である。スケジュールを考えると、今夜で執筆を始める必要が出てくるから、眠気覚ましの強いチョコレートが必要になる。

 「やっぱりさあ、シレンティウムって名前変えたほうが良くない?パルパッソとか」

 「絶対ダメです」

 ゴーシュはメイソンと打ち合わせを始めた。執筆に取りかかるのはもう少し後になるだろう。シフォンは頭の中で貸本屋を閉めた後の今日のスケジュールを組み立て始めた。

 

 「でもすごいよね。誰の声を失わせるかって、ああやって話し合いで決めるのって」

  「人狼伝説をあんな風にリメイクするなんて思わなかったよ。面白いなあ」

  「人狼伝説?元々そういう話があるの?」

 きょとんとするドリスにキースが説明した。

 「あるもなにも、この村に伝わる伝説だよ。満月の夜に人間を喰べた狼が、月光の魔力でその人物になりすまし、家族や友人を夜ごとひとりずつ餌食にしていく、忌むべき存在、それが人の狼と書いて人狼。」

 「そんな伝説があるんだ………」

 「人狼が紛れ込んでいることを知った村人たちは、村を救うために悲壮な決意を固める。さっきの魔女と同じように、毎日会議を開き話し合い、人狼と思わしき人物を」

 「処刑する」
 説明を聞いていたドリスとキンバリーの顔がだんだん強張っていった理由を、キースは理解した。背後から来た人物が自分の右肩に手を置き、自分のセリフの続きを取った。その声をキースはよく知っていた。

 「局長も公演を観にいらしていたとは知らなかったです」

 振り返らずに、キースはねじ巻き仕掛けの人形のように応答を返した。

 「観てねえよ。どこぞの記者が油売ってねえか調べてたらあっさり見つけちまっただけだ」

 左肩にも手が置かれ、キースはまたビクリとした。

 「これから全国公演するメイソン紙芝居のプレビュー公演となれば、取材しないわけには行かないですから」

 「俺はキースを文化部に配属した記憶はないけどな」

 「この村は小さいから、どこに配属されてもほぼ全部オールラウンドでできるようにしておけって言った記憶はありますよね、局長」

 「そう言った記憶はあるが、お前はあくまで社会部だから事件の調査や裏とりを最優先にしろって言った記憶もあるぞ」

  瞬間、キースが前のめりの姿勢になった。

  「あ、テメエ待て!!」

  局長と呼ばれた男、サミーはキースが逃げようとするのに気付き追いかけようとしたが、キースの方が早かった。キースはサミーを振り切り、北側にある村の教会方面へ全速力で走り去っていった。

 

  「まったく……ああ、話している最中、悪かったな」

  サミーは呆然と顛末を見ていたドリスとキンバリーに詫びた。

  「あ、いえ、大丈夫です………ええと、サミーさんも知ってるんですか?人狼伝説」

  少し気まずくなった間を紛らわせようと、キンバリーが尋ねた。

  「知ってる。……そうだな。少し待ってくれ。ダンカン、紅茶を一杯頼む」

 「はい、かしこまりました」

  サミーは紅茶を頼むと、キンバリーとドリスの近くに椅子を持って行き腰を掛けた。

  「この村に配属になった時、歴史だの地理だの、ひと通りのことは調べた。そこで知ったのが人狼伝説だ。さっきキースが言っていた通り、昼は疑わしい人物を議論で決めて処刑する。で、夜は人狼にまとめて襲われないように結界を張った別々の場所で眠る。人狼は結界を一晩で一度しか壊せないから、最悪、死ぬのは一人で済む」

  「結界?」

  「賢者様が施した秘術によって、人狼と戦うための場所が出てきて、そこなら結界を張ることができるんだとよ。で、議論を尽くして人狼を追い詰め村人は、人狼を全部倒して平和な村を取り戻しました、とさ」

  「そんなおとぎ話があるんだ…」

  「ですがこの村の門には賢者様の魔除けが飾ってありますから、全くのデタラメでもないかもしれませんね」
  サミーに紅茶を運んできたダンカンがドリスのつぶやきを受けた。
  「ダンカンも人狼伝説知ってるの?」
  「自警団の見回りで、クリスに教えてもらいました。北側の門に飾ってある賢者様の魔除けは、人狼などの魔物の侵入を防ぐためであると。人狼が本当にいるかどうかはわかりませんが、何か正体の分からない魔物がいるというのは、十分ありうる話かもしれませんね」
  キンバリーの質問に、近くの椅子に腰をかけながらダンカンが答えた。
  「そうなんだ………」
  キンバリーはマカロンを食べながらダンカンの話を聞いていた。もしかしたら、賢者様のお墓に何か関係があるのかもしれない。そう思いサミーとダンカンにもっと話を聞こうと思った時、カラスの鳴き声が聞こえてきた。
  「おっと、長居しちまったな。そろそろ俺は局に戻るよ。じゃあな」
  いつのまにか夕暮れになっていた。サミーはダンカンに紅茶代を渡すと、広場を後にした。
  「ありがとうございました。…ええと、そろそろ店を閉める時間ですので………」
  ダンカンは少し申し訳無さそうにキンバリーとドリスに告げた。
  「あ、ごめんなさい。ごちそうさまでした」
  「また明日ね!」
  ドリスとキンバリーはダンカンに礼を告げた。もっと話しを聞きたかったが、邪魔するのも悪かったので諦めた。
 
 
  「あ、ちょっと待ってキンバリー!」
  席を立ちドリスと共に家路につこうとするキンバリーを、デイジーが呼び止めた。
  「何ですか?」
  「さっき店の前で見つけたんだけど、これキャメロンのじゃない?見覚えある?」
  デイジーが差し出したのは銀色の万年筆だった。
  「…そうです!これキャメロンのです!」
  一目見て、キンバリーはすぐにキャメロンが使っているものだとわかった。父親の形見として、いつもキャメロンが利用している万年筆。
  「良かった。キャメロンに届けてくれる?」
  「はい、もちろんです!」
  キンバリーはデイジーに何度も礼を述べ、家路についた。

 

【続く】 

また苔が生えてくるその日まで(4) 作戦決行?

 午前5時。ようやく日が出始める頃にキャメロンは目を覚ました。いつもと同じ起床時間だが、いつもよりずっと頭がスッキリしている。昨日は早く帰ることができたので早寝をしたのが功を奏した。毎日こうだったら良いのだが、おそらくそうはいかないだろう。自分はともかく、マドック先生は自分よりずっと働いているはずだが睡眠時間を確保できているのか、とキャメロンは心配している。医者の不養生を地でいくことにならないと良いのだが。
(……あれ?)
 身支度を素早く整え家を出ようとして、キャメロンは気付いた。玄関にある靴は自分の靴が一足だけ。キンバリーの靴が無かった。気になってキンバリーの部屋に向かい、音を立てないようにドアをそっと開けた。
「お姉ちゃん?」
 目を凝らして部屋の奥のベット見た。毛布がめくられていて、人の姿は無かった。
 
 
 (起きられた!!良かった!!)
 キャメロンがキンバリーのベットを確認していた頃。キンバリーは軍手とタオルと小さいシャベルを袋を入れ少し早足で歩きながら墓地へ向っていた。目的地は賢者様の墓。
 
  墓守の手伝いを終えた帰り道、キンバリーは貸本屋で植物図鑑を借りてヒカリゴケの生態を調べた。ヒカリゴケの生態についてはまだわかっていない事が多いため書いてあることは多くなかったが、収穫はあった。例えば洞窟のような、湿気が多くて風通しの悪い空洞にヒカリゴケはよく生える、と書いてあった。
 これが事実なら、ある仮説が成り立つ。賢者様の墓下にヒカリゴケが生えていた。ということは、あそこには空洞のような場所がある可能性がある。夜中に賢者様のお墓に近づいた時、フランクは墓を漁ったのかとキツく問い詰めてきた。なぜフランクがああまで問い詰めてきたのか。
 賢者様の墓下には、何か秘密がある。それがキンバリーの出した結論だった。
 
 
 好奇心と暇という2つの財産をふんだんに使い、キンバリーは準備を始めた。墓守の手伝いをすることで墓地の全体像を掴み道を覚え、墓地にいることが不自然にならないようにする。フランクに怪しまれないか心配だったが、思いの外歓迎してくれた上、魔女に関する話まで聞かせてくれるとは思わなかった。それだけに、今日の作戦を決行するのはフランクを騙すようでキンバリーは心苦しかったが、一度動いた好奇心を止めることはできなかった。
 深夜に墓地に忍び込むつもりだったが、早朝の方がいいとキンバリーは気付いた。そ、道中の暗闇を気にしないで済むし、カンテラの燃料も節約できる。それにこの時間ならまだ誰も起きていないから、誰かに目撃される心配もない。
 
 
「あれ、おはようキンバリー!早いねー!」
 自分の名前が呼ばれた気がした。
 どういうこと?
 突然のことにやや混乱しながらキンバリーは声のした方を向いた。その時、自分が大きな誤算をしていたことを知った。深夜に働く職業はほとんどないが、早朝から働く職業はあった。声をかけてきたのはパン屋のパンジーだった。
「え、あ、パンジー…お、おはようっしゅ」
 動揺しながらキンバリーは不自然な挨拶を返した。
「最近やっと暖かくなってきたから、起きるのは前よりしんどくなくなったんだけどね。キンバリーは散歩か何か?」
「え、あ、う、うん散歩散歩!運動しないとね春だしハハハ!!!」
「朝早くから運動ですか、いいですね。最近体動かしてないから、私も見習わないと」
 引きつった笑いを浮かべ必死に誤魔化そうとするキンバリーの後ろから、二人の会話に割って入ってくる人物。
「あ、ウォルターおはよ。ていうかウォルター運動する必要ないじゃん、水毎日運んでるんだし」
「そうでもありませんよ。背中と腕は鍛えられますけど腹は運動足りていないんです。」
 水汲みウォルターの朝も早かった。
「あ、じゃあ私行くね……!」
「ああ、ごめんね邪魔しちゃって」
「あ、ではまた」
 これ以上いるとボロが出てしまいそうだったので、キンバリーは慌てて2人に別れを告げて早足でその場を去った。ごまかせたかどうか不安だったが、ウォーキングのルートとしてはそれほど不自然じゃないだろうと自分に言い聞かせ、キンバリーは再び墓地へ向った。
 
 
 キンバリーは墓地に辿り着いた。
黄道13星座の名を冠した、各スフィアの代表として光り輝く選ばれし魔女たち。魔女たちは畏怖と憧憬を込めてこう呼ばれました。『マギアクリスタ』と。しかし星降りの宴の日、マギアクリスタ達に試練が訪れるのです!」
 墓地の近くには、誰に見せるでもなく1人で紙芝居を熱演する人物がいた。
「……何やってるの、メイソン……?」
「うわ、びっくりした!キンバリーこそ何やってるの?」
「わ、私はえーと、ウォーキングよ、ウォーキング」 
「その袋は?」
「え、こここれはタオル!」
 持っていた袋を指摘されて、キンバリーは慌てて袋からタオルを取り出した。墓下を探るための道具を指摘されるとは思わなかったが、タオルを入れておいて本当に良かったと思った。
「で、メイソンはこんなところで何やってるの?」
「紙芝居」
 当然とも言いたげに答えた。
「何でこんなところでやってるの……?」
「全国ツアーが始まるから準備したいんだよ。ここなら誰も来ないから大きな声出せるし。あ、そうだ。今日、午後からシフォンのところでプレビュー公演やるから、よかったらキンバリーも来てよ!」
 意味がわからなかった。
 ただわかったことは、しばらくメイソンはここで紙芝居の練習を続けるだろうということだ。パンジーとウォルターの時はウォーキングで誤魔化せたが、メイソンが近くにいる以上、墓地に入るわけには行かなかった。
 キンバリーは作戦の決行を断念した。
 
「これ、前売り引き換えクーポン!デイジーのところ行けばマカロンとかもらえるから!」
「あ、ありがとう……」
 メイソンから手渡された手描きのクーポン券を袋にしまい、キンバリーはウォーキングをする体で自宅に戻った。
 
 結局、墓地に忍び込むことはできなかった。早朝にあんなに人が多いとは思わなかった。誤算を悔いながらキンバリーは二度寝した。
 
【続く】

また苔が生えてくるその日まで(3) 魔女の墓磨き

 正午近くになってようやくキンバリーは目を覚ました。とはいっても、この時間帯になって起床するのはキンバリーにとっては日常的だった。違っていたのは、昨日は墓地から帰ってきた直後にベットに倒れこむようにして寝たため、普段より就寝時間が早かったことだ。それにも関わらずいつもと同じような時間まで寝ていたので、思っていた以上に疲れていたのだろう。

 キンバリーは身支度を整えるため、のそのそとベットから這い出した。
 
 洗顔と軽い化粧しようと洗面台に向かう途中、キンバリーはリビングに書き置きがあるのを見つけた。昨日帰ってきた時は無かったはずなので、あの後キャメロンが帰ってきたのだろう。
 
「しばらく忙しくなりそうだから、夕飯はいらない。何かあったらマドック先生の診療所に連絡ちょうだい。  キャメロン」
 
 仕事に慣れはじめたとは聞いていたが、そうなるとマドック先生も遠慮無く仕事を振るようになったのだろうか。体がそこまで丈夫な方ではないし、調子崩さなきゃいいけど。
 キンバリーは弟の身体を少し案じつつ、出かける準備を始めた。押入れや洗面台を探り、必要な道具を揃えた。たわしにバケツ、ほうきとちりとり、そして軍手。とりあえずこれがあれば大丈夫だろう。
 
 
 「……何しに来たんじゃ、おんしは」
 管理事務所を訪れたキンバリーをフランクは不審者を見る目つきで睨みながら言った。
 「お手伝いに来ました!!」
 そんなフランクの視線を意に介さずキンバリーは答えた。ラフな白Tシャツにサスペンダーのついたジーンズズボン、軍手を嵌めて右手にほうき、左手にたわしとちりとりを入れたバケツ。そんなキンバリーの格好は、確かに掃除をするための格好ではあった。
 「あの、昨日はご迷惑をおかけしてすみませんでした。それでお詫びと言うわけではないんですが、掃除のお手伝いをさせていただけないでしょうか?」
 「藪から棒に…」
 「昨日歩いてたんですが、広いですよねここって。掃除とか管理とかすごく大変そうで。だから、お手伝いできないかって思いまして」
 フランクの言葉を遮るようにキンバリーは訴えた。少なくともキンバリーがそう感じたのは事実だった。
 「……大変じゃぞ」
フランクは答えた。
 「…あ、ありがとうございます!!」
キンバリーは満面の笑みで答えた。思いつきで建てた自分の計画が予想以上に順調に進んだことに対して、心のなかで快哉を叫んだ。
 
 
 キンバリーは心のなかで悲鳴を上げた。
 スクレイバーの墓石の苔を取り除き、周りの落ち葉を拾ったり雑草を取り除く。最初は単純でなんてことない作業だと思っていたが、次第に腕が重く、腰に鈍い疲労が溜まっていくのをキンバリーは感じた。手伝うといった手前、途中で投げ出すわけにはいかなかったが、特に苔を取り除くのが大変だった。墓石の形は角型、十字架型、アーチ型など様々で、その度スクレイバーを慎重に当て、力を抜き過ぎず入れ過ぎず苔を取り除くのは神経を研ぎ澄まさなくてはならなかった。苔を上手く取り除き光沢のある御影石が現れた時は嬉しかったが、腕と腰に溜まる疲労を帳消しにするまでには至らなかった。
 「ほれ、まだ苔が残っとる」
 フランクはスクレイバーで磨いた後の墓石の隅を指さしキンバリーに言った。キンバリーは意地悪なフランクに対する怒りを隠した笑顔で答え、喜んでとばかりに指摘された苔を取り除いた。
 
 もっとも、フランクは意地悪ばかりで言ったわけではなかった。
「でも、これくらいなら残ってても別にいいんじゃないですか?」
「駄目じゃ、苔はきちんと取り除かんといかん。墓石はデリケートじゃからの」
「デリケート?」
「少しでも苔とか汚れを放置すると、石は痛む。それが広がるということは、石の痛みが広がる。しまいにはああなる」
 フランクが指さした方をキンバリーは見た。そこには、長いこと手入れがされていない墓石があった。苔がまだら状に墓石を覆っているもの、ヒビが至る所に入っているもの、ひどいものには右半分の石が崩れているものまであった。
「ひどい……」
「ああなってしまったのはワシらにも責任があるでの。じゃが、最近はここを訪れるのも少なくなって無縁仏が増えておる。これでは管理が追いつかん」
「そうだったんですか……」
 キンバリーは、なぜフランクがあっさりとキンバリーの申し出を受けいれたのか理解した。それなりの数手入れはしたつもりだったが、フランクの口ぶりから察するにまだまだ手入れが必要な場所は多そうだった。
「せっかく魔物からこの村を守ったというに。魔女たちが泣いておるわい」
「魔女?」
「何じゃ、最近の若いモンは星降る魔女伝説も知らんのか」
「星降る……知ってますそれ!!というかそれこの村に関係あるんですか?」
「あるわい!それを知らんで魔女伝説を知っとるとは言わん」
「だって魔女伝説って、架空の話じゃ……」
「魔法を使ったかどうかは架空の話かもしれんが、本人達は実在し賢者様とともにこの村を守ったのは事実じゃ。おんしが磨いた墓が、まさにそれじゃよ」
「え?」
「彼女たちはその類まれなる才能を遺憾なく発揮し、賢者様と共に恐ろしき魔物たちの侵攻を退けてきた。今も北側の門には賢者様の魔除けが祀られておる」 
 フランクの説明を聴きながら、キンバリーは今しがた自分が苔を取り除いた墓石に刻まれた名前を読んだ。
アイヴィー・N・ブランチ……ええっ、アイヴィー!?」
「うん?名前は知っとるのか?」
「ええと、ゴーシュさんが書いた小説で……」
「ああ、なるほど。ゴーシュの小説かい。昔、ゴーシュが取材させてくれと頼んできおったんじゃが、ようやっと書き上げたんか」
 フランクは合点が行ったという体で頷いた。
「フランクさん。ということは他にも、その、魔女たちがここに眠っているんですか!?」
アイヴィーも含めて全部で18人、全員おる。ただのう……」
「ただ……?」
 
 
 キンバリーは、フランクが言葉を濁した理由が分かった。魔女たちの墓は苔が生えていたり雑草に周辺が覆われていたりで、ほとんど手入れがされていなかった。フランクは魔女伝説の事を知っていたが、それでもこの有り様になっているということは、本当に管理が追いついていないのだろう。
「こんな有り様にしてしまってなあ……」
 手入れができていないことを魔女たちに詫びるように呟くフランクを見て、キンバリーは自分まで何か悪いことをしている気持ちになった。星降る魔女伝説の事を知って魔女たちのファンになっていたのに、その本人たちの実情も知らずに呑気に楽しんでいたのがなんだか申し訳なくなった。
 
 
  「フランクさん。魔女たちのお墓、磨かせてください」
 
 
 その翌日から、キンバリーは苔を丁寧に取り除き墓石を磨き、雑草を毟り枯れ葉を拾い集め取り除いた。一部の墓石に入ったヒビはどうしようもなかったが、できるだけのことはした。お陰で魔女たちの墓は見栄えがずっと良くなり、フランクにも申し訳ないくらい感謝された。キンバリーは魔女たちの墓が綺麗になったこと、フランクの心象を良くしようと墓守の手伝いを試みたことが予想以上に上手くいったことに心から満足した。
 
 
  墓守の手伝いを続けることで、墓場の全体像をキンバリーは掴んでいた。
 4月に入ってから最初の土曜日。作戦決行の時は来た。
 
【続く】

また苔が生えてくるその日まで(2) 墓守との邂逅

(どうしよう……。)
 キンバリーは焦っていた。墓地の探索に夢中になるあまり、日が暮れていることに気づかなかった。慌てて出口に引き返そうとしたが、どこで道を間違えたのか一向に辿りつけなかった。そうこうしているうちに辺りの闇はより一層深くなっていった。このままでは辺りすら見えなくなり、進むことすらできなくなるだろう。
(どうしよう、このままじゃ……あ!)
 記憶が確かなら。キンバリーは鞄の中を探った。
「あった!!」
 キンバリーはカバンの中からマッチを取り出した。火魔法用の小道具として鞄の中に入れていたマッチだ。
 「…わ、我が精霊よ、その力を宿せ!」
 キンバリーは夜の墓地という恐怖を打ち消すために、自作の呪文を唱えマッチを擦り灯籠に火をつけた。辺りが明るくなった。マッチはまだ残っている。これなら灯籠に火をつけていくことで墓地の出口までたどり着けるだろう。
 (怖くない怖くない、精霊たちがついてるから怖くない怖くない……)
 日はすっかり暮れて、月明かりと灯籠だけがキンバリーの進む道を照らしていた。灯篭に火を灯しながらキンバリーは進んでいったが、なかなか往路で見た記憶のある風景が現れず、キンバリーは不安になった。
 あれだけあったはずのマッチはいつのまにか半分になっていた。記憶を頼りに道を曲がると、正面に大きな墓が見えた。そして、墓の後ろには塀があった。行き止まりだった。
「嘘でしょ……。」
 これまで散々歩いたのが無駄だったことに絶望し、キンバリーはその場にへたり込んでしまった。しかしその瞬間、墓下から何かが光っているのが見えた。
(え、何か光ってる…?)
 光の正体を探ろうと、キンバリーは近くの灯篭に火をつけて素手で墓下の土を掘っていった。光っているものの正体はすぐにわかった。苔が灯籠の明かりを反射し、鈍くエメラルド色の光を放っていた。
(光る苔なんてあるんだ……)
 キンバリーは疲れも忘れて、光る苔に見入っていた。だから、背後の気配に全く気づかなかった。
 

「誰じゃあ!!!!」

「ぎゃあああああ!!!!!」

 

 突如として背後から響いた怒鳴り声にビクリと体を震わせバランスを崩し、墓に背を預ける形でへたり込んだ。怒鳴り声を上げて威嚇したその男は、そんなキンバリーの顔をカンテラの灯りで照らし訝しげに尋ねた。キンバリーはそれが誰だかわかった。この墓地の入り口にある管理人室で見た男。墓地の管理をしている墓守のフランクだった。

「あ、あの、キンバリーって言います、私!!私、道に迷っちゃって、それで……」
「なんじゃ、ただの迷子かい。遅くまで何やってんじゃ、おんしは……うん?」
 ややパニックに陥りながらも必死で弁明するキンバリーの様子に「ただの迷子か」と納得しかけたフランクは、キンバリーの手についていた光る苔を見て表情を固くした。
「おい、その手は何じゃ?」
「え、あ、これは……」
「墓を漁ったのか?」
「え、ええと苔が光ってて、それで……」
 突然詰問する調子に変わったフランクに戸惑いながらキンバリーは答えた。しかし、その答えにフランクは納得しなかった。
「墓を漁ったのか、と聞いているんじゃ!」
「あ、漁ってません!苔が光っていたから、それで珍しかったから!!」
 口調が更にきつくなるフランクに動揺しながら、キンバリーは自分が墓荒らしなどしていないことを説明した。しかし、フランクは相変わらずぎろりとキンバリーを睨み尋ねた。
「そもそも、こんな時間までうろついているもんじゃない。一体何をやってたんじゃ」
「ですから、道に迷って……」
「道に迷って、たまたま賢者様のお墓に来たということかい?」
「賢者様のお墓?」
「何じゃい。本当に道に迷ってここに来たんかい」
 キンバリーが聞き返すと、ようやく納得したのかフランクの表情が少し呆れたような表情に変わった。きつい表情ではなくなりキンバリーは安心したが、バカにされたようにも思えていい気分はしなかった。
 「これ、賢者様のお墓なんですか?」
 「最近の若いもんは賢者様の墓も知らんのか」
 「こんなところにあったんですね…」 
 キンバリーは振り返りその墓を見つめた。灯籠の他にフランクの灯りもあったため、先程よりは墓の様子がくっきり見えた。賢者様のお墓と聞き、もっとよく知りたいと墓石に彫られた文字を読みたかったが、フランクに怒られそうな気がしたので止めておいた。
 「知ってる奴がおると思ったらトレジャーハンターかなんか知らんが、墓荒しばっかりじゃ」
 確かに普通の人間は、夜遅くにこんな墓地の奥深くまで行かない。自分が墓荒しと間違えられ怒られたことは不満だったが、理解はできた。しかし、墓荒しが来るということは。
 「賢者様のお墓ってことは、何か眠っているんですか?」
 「賢者様に決まっとるじゃろ!アホか!!」
 うっかり好奇心満々で尋ねたキンバリーをフランクは一喝した。考えてみれば、何か眠っていたとしても墓守が素直に教えてくれるわけがなかった。かくしてキンバリーは、墓地の出口までフランクの説教を受けながら帰るハメになった。出口に辿り着く頃には、キンバリーは心身ともにクタクタになっていた。
 
 (夜遅くなっちゃったから、キャメロンにも怒られるな……)
 フランクにも怒られキャメロンにも怒られるというダブルパンチに憂鬱になりながらキンバリーは帰宅したが、家に灯りはついていなかった。もうキャメロンは寝てしまったのだろうかと思い、静かに鍵を開け家に入った。しかしキャメロンは自室にいなかった。
 (まだ帰ってきてないのかな……?)
 キャメロンはマドックの診療所に遅くまで詰めることがあったが、それでもここまで遅くなるというのは今まで無かった。さすがに少し心配になったが、それよりキャメロンに怒られなかったことを安堵しながら、キンバリーは眠りについた。
 
【続く】 

また苔が生えてくるその日まで (1) 暇人の墓参り

ゆっくり目を閉じて、意識を右手に集中する。右手をゆっくり開き、 
「アリシ・セーガ」 
魔導書に記されていた呪文を、一つ一つ思い出しながらゆっくり読み上げていく。
 「ドエン・ラアノール」
 下ろしていた右腕をつっくりと、正面に手の平を向けるまで上げ、
 「ブカ・ニモ」
 指を一本ずつ、閉じていく、まずは小指。
 「スニデドン」
 薬指を閉じる。
 「ラーロラー・キダン」
 中指を。
 「リートーオ・オリセ!」
 親指を閉じる。天に向けた人差し指に、魔力が集まってくる。準備は整った。あとは号令をかけて相手に向かって撃つだけだ。狙いを定め、人差し指を正面に向ける。
「我に集いし数多の星よ、その力を持って邪悪を貫け!!貫く数多の針(ピアッシング・ミリオンニードル)!!」
 
 
「朝からうるさいよ、お姉ちゃん!!」
 キャメロンがドアを開けて怒鳴り込んできた。キンバリーはびくりと体を震わせて、正面に向けていた右腕をひっこめた。 
「ご、ごめん、で、でも、やっとスコーピオンアイヴィーの超魔術が……」
 「いいよもう魔女の話は!!」
  キャメロンの剣幕に動揺しながら言い訳するキンバリーをキャメロンは冷たくあしらった。ただでさえ最近は忙しく睡眠時間を十分に取れないこともあり、キャメロンは余計イライラしていた。 
「……だってーー!! 暇なんだもーーん!!!」 
「知らないよそんなの! そんなに暇なんだったら洗濯物でも取り込んでよ! もうマドック先生のところに行く時間だから!!」 
 泣き出しそうなキンバリーを冷たくあしらい、キャメロンは乱暴にドアを閉めて家を出て行った。
 
 
(……暇だなー) 
 キンバリーは当てもなく村をフラフラと歩いていた。とりあえず洗濯物を取り込まないとキャメロンに怒られるので、洗濯物は綺麗に畳んでタンスにしまった。しかしそれを終えてしまうと、またキンバリーは暇になってしまった。 
   両親が財産を残してくれたおかげで、キンバリーとキャメロンが生活に困ることは無かった。しかしそのことは、キンバリーの勤労意欲に悪い影響を及ぼし、キンバリーをますます暇人としていた。一方キャメロンは、もう自分たちみたいな境遇の子供を増やしたくないという信念のもと猛勉強して、今では医師マドックに師事し医術を直接見習うまでになっていた。まだ日は浅いのでできることは多くはないが、その熱心な姿は確実に村の人々の信頼を集めていた。最近、村を当てもなくぶらついているとキャメロンは頑張っているねと声をかけられることが多くなった。しかし、それはキンバリーにとっては「姉である自分は弟と比較して何もしていない暇人」と言われているように感じられた。そんなこともあり、キンバリーは声をかけられないようにあまり人気のないところをふらふらとするようになっていた。
 
 
 「あれ、こっちって…。」 
 キンバリーは自分が村はずれの墓地近くまで移動していたことに気付いた。今日は彼岸だ。墓参りは昨日キャメロンと済ませたが、どうせ他にすることもないので、キンバリーはもう一度墓参りするついでに墓地を探索することに決めた。
 
「また来たよー。元気してるー?」 
 キンバリーは墓に呼びかけた。もちろん両親は死んでるので元気にしているわけはないのだが、キンバリーはかつて自分が村に帰省した時と同じように、そう呼びかけた。花はまだ枯れていないし、墓石は昨日キャメロンが丁寧に磨いていてくれたので、キンバリーは軽く祈るだけにとどめた。
 両親の墓参りを済ませたキンバリーは、特にすることもなかったので予定通り墓地を探索することにした。キンバリーの両親の墓は墓地の入り口近くにあったので、あまり墓地の中を歩くことが無かった。夕暮れ近くだからか、墓参りをする人も見かけなかった。キンバリーは人がいないことに居心地の良さを感じながら墓地を巡った。 
 彼岸の季節だからだろう、大抵の墓地には花が手向けられていた。しかし中には、花はおろか何年も放置されているめか、苔にびっしりと覆われた墓石もあった。キンバリーは苔に覆われている墓に彫られた名前を読み、その人物に想いを馳せた。
 
   この人、子供とか身寄りの人いないのかな。たまたまだったらいいんだけど。
  私が死んだら、キャメロンはきっと墓参りしてくれるんだろうな。キャメロン、しっかりしてるから。でももしキャメロンが死んだら…。
 
 そこまで考えて急にキンバリーは怖くなり、考えるのを止めた。キャメロンがもし死んだら、キンバリーはいよいよ一人になってしまうと感じた。自分の家にある財産は何の慰みにもならなかった。自分の想像に恐怖したキンバリーは、帰ろうとしたが、振り返って気づいた。もう日は暮れて、夜になろうとしていた。
(あ、あれ、帰り道どっちだっけ?)
 目印になりそうなものはあったはずだが、暗くなって行くにしたがい、目印が見えなくなっていた。闇を深めていく墓地の中で、キンバリーは帰り道を見失っていた。
 
【続く】