文豪の書物置き場

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幻のパンと長いスプーン 【パンジーさん100st記念小説】

 パンジーさん100ステージ記念として寄稿した「幻のパンと長いスプーン」を、一部改訂して投稿します。改めて、パンジーさん100stおめでとうございました。今後のご活躍を楽しみにしています。

 また、作中のヒルダのセリフは北海道弁ですが、こちらの監修はまどかさん (@madoka0808) にお願いいたしました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

【拝啓 パンジー様

  6月に入ったのに、もう梅雨明けが待ち遠しいと思っています。エスターです。
  先日はお見送りの会を開いてくれて本当にありがとう! すごく嬉しかったです! こっちに来たらステファンと会えると思ったんだけど、ステファンはこっちの修道長の付き添いでやっぱりしばらくいないらしいの……残念。
  あっ、御手紙したのは、面白そうな本を見つけたからなの。この間古本屋さんで見つけた本で、見たことのないパンが一杯! ただ、レシピは昔の言葉っぽくて、よくわからなかったんだけど……(汗)。パンジーはこんなパン見たことある?参考になるかな、と思って送るね。まあ本当は、このパン美味しそうだから作って欲しいなー、なんて思って(でも書いているうちに、本当にパンジーのパンが食べたくなっちゃったよ―)。
まだ蒸し暑い日が続きそうだし、デイジーの心配ばっかりしないで、パンジーも身体には気を付けてね。また手紙を書きます。それでは、また。

                                                                                                                                  敬具 エスター】

  かつて村の中央広場の近くに酒場があった。それなりに繁盛していたのだが、主人が都合で村を離れてしまい酒場は閉店してしまった。酒場が無くなり村の人々が寂しい思いをしていたある日、村長のもとに食堂を作らせて欲しいと申し出があった。申し出たのは、北国から来たという訛の強い女性、ヒルダ。ちょうど酒場が無くなったタイミングで、代わりになればと考えた村長はヒルダの申し出を受けた。
  ヒルダの作る「エスカロップ」や「クリームシチュー」といった独自の手料理は、珍しがられつつもその味や豊かなバリエーションから、次第に人気を博し根付いていった。ヒルダの訛は、珍しがられつつも安心できると評判になり、酒を飲みながらヒルダと話すのを楽しみにする村人が増えていった。
ヒルダには食堂の主人に必要な才覚があった。
  かくして、食堂【エスカロップ】は、村人たちの胃袋を満たす憩いの場となったのである。


「……いいやー、見るの初めてだ、こんなパン」
「そっか。ありがと」
  エスカロップのカウンター席で夕飯のクリームシチューを食べ終えたパンジーは、エスターから届いた本をヒルダに見せていた。
「しかし、ずいぶん古い本だな。どこで手に入れたんだこりゃ?」
「エスターが送ってきてくれたんだよ」
  そのパンジーの隣でキンバリーと食事をしていたルーサーが本を覗きこんだ。その古本は様々なパンの絵が表示に描かれていることから想像できる通り、パンのレシピ集だった。パンジーが知らないパンも少なくなく、早速作ってみよう! と意気込んでみたものの、レシピが書かれている言葉がパンジーには読めなかった。若干今の時代とは古い言葉かつ別の地方の言語だろうと見当はつくものの、正確な記述がわからないため簡単には作れそうになかった。
「ルーサーとキンバリーは、こういうパン見たこと無い?」
「知らねーです。でもこれ、なんだかサクサクしててすげー美味しそうです」
「俺も見たことねえけど、本当に美味そうだな」
「そだね、フルーツさ乗っかってるの珍しいし、パンっちゅうかお菓子みたいだべ」
「そう思ってデイジーに聞いたんだけどね。デイジーも知らなかった」
  パンジー達が見たことの無いパンでも、この村の外から来たヒルダ達なら知ってるかもしれない。そんなパンジーの一縷の望みは残念ながら叶わなかった。情報収集を諦めてパンジーが三人に礼を述べて会計をしようとした時、エスカロップに客が来た。その客を見てヒルダが驚きの声を上げた。
「やー、デニちゃんしばらくぶりだね。なしたのさ!」
  その声に残りの三人が客の方を向くと、ルーサーとキンバリーも驚きの声を上げた。
「え、デニスさん……」
「領主様が、何でこんなところに……」
「こったらとこって何さ」
  ヒルダがキンバリーに膨れたが、パンジーは1人状況がわからずきょとんとしていた。

 

「デニちゃんさ、デニス地方の三代目領主様なんだわ」
  ヒルダがパンジーに説明した。
「所用がございましてこちらに滞在しております。ところでヒルダさん、デニちゃんというのは……」
「ああごめんごめん、昔の癖さまだ抜けねぇんだわ」
  困った顔で勘弁してほしいというデニスに、ヒルダが笑いながら訂正した。
「所用ってなんですかー?」
「お前そういうこと聞くなよ、人がぼかしてるんだから」
  デニスに尋ねるキンバリーをルーサーが注意した。とはいえ、内心ルーサーも内容を知りたがっていたので形だけの注意ではあった。
「あら、いよいよプロポーズするのかい?」
遠回しに聞こうとしたルーサーとキンバリーの思惑をよそに、ド直球に聞いたヒルダの言葉にその場の全員が噴いた。
「えええ!!!」
「ぷ、プロポーズするんですか!?」
「マジかよ!!」
「いやいやいやいやいや、べべべ別にそんなことをしに来たわけでは!!」
  驚くパンジー達にデニスは必死で弁明した。しかしまだ酒を飲んでもいないのに傍から見ても分かるくらいに紅潮した顔を見れば、図星であることは明らかであった。
「本当に違うんですよ、本当に……!」
  パンジー達に向って否定するデニスだったが、パンジーの側に置いてあった本を見て動きが止まった。少し思案した後、デニスはパンジーに尋ねた。
「……すみません、その本は?」
「え、これですか?」
  パンジーはデニスに表紙を見せた。瞬間、デニスはパンジーに駆け寄り尋ねた。
「その本、見せてくれませんか!?」


「デニちゃ……デニスさんのおじいさんさ書いた本なのかい?」
「はい、間違いなく私の祖父であるデニス1世が書いた本です。パンジーさん、どうしてこの本をあなたが?」
  デニスはパンジーから本を受け取ると、1ページ1ページを丁寧にめくり、感慨深げに目を通しながら尋ねた。
「参考になったらって、友達が送ってくれた。古本屋で見つけたって言ってたけど」
「そうでしたか……驚きました。まさかこんな形で見つけられるとは」
「この本に乗っているパン、デニスさんのおじいさんが作ったってことですか? すげーうまそうです」
「はい。我がデニス家は代々料理に関して造詣を持ち、創作を絶やさぬべしと家訓にありますので。祖父はパンに造詣が深くレシピを書籍としていたらしいのですが、自宅にも書籍の断片しか無くレシピが残っていなかったんです」
「デニスさんもパン沢山焼いてるですか?」
「いえ、私はこんにゃくの方が好きなのでこんにゃく、はるさめを中心とした料理を作っております。通常のこんにゃくやはるさめも良いのですが、ほかの味と組み合わせることより、こんにゃくとはるさめのポテンシャルを引き出すことができることを発見したのです。例えばカレー煮込みにカルボナリ風などは、はるさめと組み合わせると……。」
「……ええとデニスさん、このパン知ってる?」
  デニスの話が長くなりそうなのを察したパンジーが、本の表紙に描かれていたパンを指さしてデニスに尋ねた。パンジーが一目見て作りたいと思ったものの、作り方の詳細がわからずヒルダ達に聞いていたパンだった。
「これは……ああ、デニッシュですね」
  ページをめくり、パンジーが指さしたパンが描かれているページを開いてデニスが答えた。
「祖父が一番最初に作ったと言われているパンです。デニス地方で生まれたパンだから、デニッシュ、と」
「じゃあ、このパンの作り方もわかりますか? レシピが読めなくて……」
「ああ、確かにこれは読めないでしょうね。単位が古いし、言葉も方言がかなり混じっています」
  デニスが苦笑しながら答えた。
「そうだったのか……」
  肩の力が抜けたパンジーがため息をついた。
「ですが解読すればレシピは再現できると思いますよ。パンジーさんはパンを良く焼いているのですか?」
「焼くも何も、パンちゃんさ村一番のパン屋さんなんだわ。うちのパンもぜーんぶパンちゃんとっから仕入れてるも」
  ヒルダの返答を聞くやいなや、
「パンジーさん!」
  パンジーの両手を握りしめてデニスが迫った。
「な、何ですか?」
  驚き息を飲むパンジーにデニスが言った。
「お願いします。デニッシュを作ってくれませんか!? できることがあったらなんでもしますから!!」

 


  デニスの祖父であるデニス1世がデニッシュのレシピを発行してから半年後、戦争が始まった。当初は中立を保っていたデニス一世だったが、拡大していく戦火にデニス地方も無縁ではいられず参戦せざるを得なくなってしまった。結果としてデニス地方もダメージを負い、デニス1世が発行したレシピは戦火で失われ、デニッシュを作っていたパン職人も亡くなってしまった。そのため、デニスにとってデニッシュは話に聞くことはあるけど実物を見たことがない「幻のパン」として存在し続けた。
  その幻のパンのレシピが、目の前にパン職人と共に在る。しかも聞けばこの村一番のパン職人。デニスはなんとしても、祖父の残したパンがどのようなものだったか知りたかった。パンジーにとっても、デニスの申し出は未知のパンを作るという、パン職人としての血が騒ぐ願ってもない申し出だった。
「喜んで!!」


  こうして翌日からパンジー達は早速デニッシュを作り始めた。「達」というのは、パンジー以外からもデニッシュ作りに協力したいと申し出があったからだ。
「パンとお菓子が合わさってるのって、絶対美味しいよ! 私も手伝う!」
「私もこれ、食べてみたいべさ!」
  「幻のパン」に惹かれたのはパン職人のパンジーだけではなく、菓子職人のデイジー、食堂の女主人ヒルダも同じだった。デニッシュに乗せるフルーツはデイジーが用意し、細かい作業や下準備はヒルダが手伝った。
「店番ぐらいなら俺とキンバリーでやるぜ。報酬はデニッシュな」
「すげー楽しみです」
  そしてデニッシュに釣られたルーサーとキンバリーが、パン屋の店番を手伝ってくれたおかげで、パンジー達はデニッシュの試作に集中できた。
「……皆さん、本当にありがとうございます。デイジーさん、フルーツは何でも合うと思うのですが、チェリーを作ってくれませんか? ちょうどチェリーも手に入りましたので」
  デニスはレシピを解読しつつ、デニッシュづくりに必要な材料、機材を調達していった。
  デニッシュというものを一度食べてみたいという六人の願いを乗せて、パンジーはレシピと格闘しながらデニッシュを作り続けた。

「出来立てのチェリーデニッシュをキャシーさんに食べさせたいって、やっぱりデニスさんはキャシーさんの事が好きなんですね」
  デニスの話を聞いたデイジーが、微笑みながらデニスに尋ねた。
「やっぱりって何ですか、私はキャシーさんがチェリーが好きだというから、好意とかそういうのではなく……」
「じゃあデニスさんはキャシーさんとチューしたくねーですか?」
「え!? いや、それはそのそのなんというか」
「おいキンバリー、直球過ぎるだろ」
  キンバリーをルーサーが注意するが、もちろんルーサーが内心思っていることは
(いいぞキンバリー、もっとやれ)
  である。
  そんな4人をよそに、パンジーとヒルダとは渋い顔で試作品のデニッシュを睨んでいた。
「サクサク感さないっしょ」
「うん、そのせいでバターの油が余計にしつこくなってる」
  パンジーの言う通り、焼きあがったデニッシュは味こそ悪くないものの、バターの油がべっとりと生地に染みこんでしまっていた。噛むと油を噛んだかのようなしつこさが口の中に広がり、一口食べるだけで胸焼けがしそうだった。
「ねぇねぇこれさ、バターの分量さほんとに合ってるのかい?」
  首を傾げてヒルダがデニスに尋ねた。
「合ってます。私も多いと思いますが、レシピ通りだとこの分量です」
「クッキー作る時だったらこれくらいバター使うけど、パンでこんなに使うのかなあ?」
「なしてこったらバターばのっつり使うんだべか? パンてほどんと毎日食べるべさ。こったらバターば使ったら、太るんでないかい?」
「推測ですが、寒いから脂肪分の多い食べ物が好まれたんじゃないかと……」
「寒い?」
「あ、パンジーさんは存じ上げないかもしれませんね。デニス地方は山に囲まれた雪国で、冬はここよりずっと寒いんです。ですから体を温めるエネルギー源として、バターは重宝するのですよ」
「ここよりずっと寒い……」
「あっ!!」
  パンジーとデイジーが同時に叫んだ。
「暖かすぎない!?」
「そうだ! 寒い所でやらないといけなかったんだ!」

 

  まだ日も出ていない、深夜と早朝の境目とも言うべき時間。パン工房から少し離れた狭い一室にパンジーとデイジーとヒルダとデニスはいた。
「ちょっと寒いかも……。お姉ちゃん、薄着で大丈夫?」
「全然平気。捏ねてるうちに体も温まってくるだろうさ」
  部屋ある巨大な氷が室温を下げていた。普通なら手に入らない巨大な氷が手に入ったのはデニスの資金力のおかげだった。とはいえ、最近の気温のことを考えると氷はすぐに溶けてしまうだろう。手早く作らないといけないことに変わりはなかった。
  生地もバターも準備して伸ばしてある。後は温度が上がらないうちに生地を整形し焼く。いかに生地やバターに熱を伝えず、生地の整形を手早く行うかが勝負だ。
「デイジー、ヒルダ、始めるよ」

  とにかく生地やバターに熱を伝えないこと。そのためには自分の手の温度も下げる必要があると考えたパンジーは、桶に貼った氷水に両手を漬けた。5秒、10秒、15秒、20秒。次第に手に鈍い痛みを覚え、やがて手の感覚が鈍くなっていく。指が自分の意志で細かく動かせるギリギリのタイミングで桶から手を引き上げた。
  ここからは時間との勝負だ、とパンジーは思った。
  正方形に整えたバターを伸ばした生地の上に重ね、生地を四方から折りたたみ正方形の形を保つように慎重に織り込む。形ができたら、次は伸ばし棒で慎重に伸ばしていく。薄くなったら裏返しにして、デイジーが打ち粉をまぶしてから同様に伸ばしていく。打ち粉を刷毛で払い三つ折にし、もう一度伸ばす。伸ばし終わった生地をバットに入れ、冷暗所に入れる。

 

「これで1セットでだね」
  パンジーが生地を冷暗所に入れるのを見てデイジーが言った。
「よし、しばらく休憩かな」
「パンちゃん、手ぇ大丈夫?」
「これぐらい全然大丈夫だよ」
  パンジーの手を擦りながら心配するヒルダに、パンジーは気丈に言った。
「パンジーさん……」
「デニスさん、大丈夫です」
「……ありがとうございます」
「お礼はデニッシュがちゃんとできてからです」


  寝かせた生地をもう一度伸ばし、先程と同じように伸ばして再び冷暗所に入れ、しばらく時間を置いて生地を取り出した。 デニッシュ大に生地を切り、切れ目を入れて折りデニッシュの形を作り、その上にチェリーの甘煮を乗せたら濡れた布を被せ二次発酵を行う。作業自体はそれほど難しくはなかったが、かかる時間にパンジーは珍しくじれったさを覚えた。日常、パンを作っていてパンを作る工程に慣れているはずのパンジーですらもどかしさを覚えているのだから、他の三人はもっと落ち着きが無くなっていた。といってもできることもないので、4人は首を長くして待つことしかできなかった。
  一時間が経ち、布を取り上げた。
  生地はきちんと発酵している。バターは溶け出していない。
「……いける」
  生地に仕上げの卵を塗った。いよいよパンを焼くところまできた。パンジーはパン工房に戻りオーブンの準備を始めた。
「お姉ちゃん、生地ここに置くよ!」
  生地の入ったバットを運んできたデイジー達が机にバットを置いた。パンジーはプレートに生地を乗せ、オーブンにプレートを入れた。210度程度の温度で15分間。焼き加減は最後の難問で、温度が少し違うだけで、時間が少し違うだけでパンが台無しになってしまう。
「ここまで来たんだ。お願いだから拗ねないでくれよ……!」
  15分間の最後の戦いだった。
  小麦の焼ける良い匂いが漂ってきても、生地がキツネ色に色付き始めても、パンジーは気を張りながら焼きあがる生地と温度計を見つめ続けた。

「3……2……1……ゼロ!!」
  デニスのカウントダウンゼロの合図と共に、パンジーはデニッシュを置いたプレートを窯から引き上げ、作業台の上に置いた。
「わー! わや美味しそうだべさー!」
「お姉ちゃん、早く食べようよ!」
「……ああ!!」


  プレートの上のデニッシュを皿に移し、4人はチェリーデニッシュを一口食べた。4人の表情は様々だった。
「これ、美味しいよ! お店で出そう!」
  満面の笑みを浮かべてパンジーに勧めるデイジー。
「うわ、ほんっとに美味しい! こったら生地ばサクサクするんだね! すごいべさ!」
  驚きの表情で一気にチェリーデニッシュを平らげるヒルダ。
「……!!」
  生地だけの感触を味わい、次いでチェリーと一緒に食べてからガッツポーズをするパンジー。
  そして、一口食べて言葉を失うデニス。

「……パンジーさん。本当に本当にありがとうございます。きっとこれです。間違いありません」
「うん、本当に美味しいよ、これ。……おじいさん、本当に腕のあるパン職人だったんだ」
「そうおっしゃっていただき、恐縮です。祖父の願いを叶えていただいて本当に嬉しく思います」
「おじいさんの願い?」
  デイジーに、デニスは本のあとがきを見せて説明した。
「祖父の願いは、このレシピを広めて1人でも多くの人がパンの美味しさを知ってもらうことでした。そして、『自分の作ったパンを、まだ見ぬ子孫に食べさせたい』と。祖父が自分で作ったパンを食べることは叶いませんでしたが、今、こうしてデニッシュを食べています。私は、間違いなく祖父の作ったパンを食べられているのです」
「デニちゃん……」
「本当にありがとうございます……」
  デニスはパンジーに礼を述べ、嗚咽をこらえながらチェリーデニッシュを一口一口味わっていった。


「あの、パンジーさん。折り入ってお願いがあるのですが」
  デニッシュを食べ終えたデニスが、パンジーに声をかけた。
「何ですかデニスさん?」
「勝手なお願いであることは重々承知しておりますが、この本を私に譲ってはいただけないでしょうか。お金ならおっしゃっていただいた通りお支払いしますので、どうか……」
「うん、いいよ」
「……へ?」
  デニスにとって、この本はただのパンのレシピ集に限らず祖父の形見でもあった。さらにデニス1世の残したレシピとしては現存するものも多くなく、希少価値も高かった。それだけに、資産に言葉、態度といったありとあらゆるを手段と使って、デニスは祖父のレシピ集を取り戻すつもりでいた。しかしパンジーの気のないあっさりとした返答にデニスは完全に肩透かしを食らっていた。
「デニスさんさ一番持ってるのいい人だもね」
「解読できないからレシピとしても私達使えないし、読める人のほうがいいよね」
「ええっと、その…」
「あ、デニスさんこれ再版してくれませんか? レシピ読めるようにしてくれるとすごく嬉しいんだけど」
「……わ、分かりました。では、再版を約束します。その際には献本させていただきます、パンジーさん」
「ありがとうね、楽しみにしてるよ。プロポーズもうまくいくといいね」
「は!?」
  本の譲渡に関する交渉で虚を突かれたデニスは、パンジーの突然の切り込みに返答ができなかった。
「あ、ええと……」
  純粋に自分を励まして微笑んでいるパンジー見ていると、デニスは必死でキャシーへの想いを否定し隠していることが、何かすごく後ろめたいことのように思えた。
「……はい」
  デニスは短く答えた。



  まだ日も昇らない夜明け前。パン工房の鍵を開けて中の匂いを嗅ぐように大きく息を吸い込んだ。まだパンは焼いていないが、パンの焼ける匂いがした。パンを焼いた時の匂いがこの工房に染みついたのだろう。この匂いは、パンジーがこれまてパンを焼いてきた記録であり記憶だった。
  パンジーは自宅から持参した本を机の上に置き、しおりを挟んだページを開いた。
「生地は折り目正しく丁寧に折ろう! 」
「いろんなフルーツを乗せても美味しそうだね~」
  開いたページには、二人の可愛らしい女性と、美味しそうな「チェリーデニッシュ」のイラストが描かれていた。
(さあて焼こう!!)
  今日もまたパンを焼く一日が始まった。


【拝復 エスター様
  初夏というには陽射しが強すぎて、正直参ってます。いかがお過ごしでしょうか。
  勉強は順調?この間は本ありがとう。びっくりしたんだけど、本の元の持ち主に会えた。】

「……80歳?」
「びっくりするでしょ?とても80に見えないでしょ?」
「何でバラすのハイラム」
「え、じゃあ娘のドリスさんって……
「お母さんが60歳の時の子供よ」
「そ、そうなんですね……はは……は……」
「このパン、キャシーおばさんが昔作ってくれたチェリーパイみたいで美味しいですよ、デニスさん」
「昔、チェリーパイをよく作っていたとお話していたのを覚えていてくださったのですね。ドリス、ハイラムが3時のおやつに喜んで食べてくれて。とても懐かしいです。本当にありがとうございます。……デニスさん、顔色がなんだか悪いようですけど大丈夫ですか?え、ちょっと、デニスさん、デニスさん大丈夫ですか!? すごい熱……ドリス氷水用意して、ハイラム、マドックを急いで呼んで!!」

 

【あのパン、デニッシュって言うんだって。悪戦苦闘したけど、デニッシュを作れた!! この本の著者がデニス地方の領主さんだったから、そこからついた名前らしいよ。まさかその元の本の持ち主がお孫さんとは思わなかったけどね。おじいさんのパンを食べたいって願いを叶えられたから自慢しとく(笑)。結局、あの本は持ち主に返したんだけど、再版して献本してくれるって言うから、それを楽しみにしている。レパートリーも増えたし良かったよ。本当にありがとう。デニスさんは作ったデニッシュを大事に抱えていったけど、多分好きな人に食べさせたいんだと思う。】


「ごめんください、デニッシュをいただけますか?」
テイラー、最近良く来るな。パンジーに惚れたか?」
「おやおや、あっさりバレてしまいましたね。はいそうです」
「な……」
「おいマジかよ、冗談のつもりだったのに」
「私は本気ですよ」
「じゃあチューしたいですか」
「キンバリー、チューからいい加減離れろ」
(いいぞキンバリー)
「はい、キスしたいです。好きですから」
(マジかよストレートに返しやがった)
「うるさいテイラー! チェリー、ラズベリーどっちだ!」
「どちらもです。パンジーさんの作るパンは美味しいですから、ふふ」

 

【まあそうだよね。自分の作った料理を好きな人に食べてもらうの、ほんとうに嬉しいもんだよ。だからきっと、ステファンもエスターに朝ご飯作れなくて寂しいんじゃないかな。僕の場合は、世話焼きの部分もあるのかなとちょっと思ってるけど(いや、こういうのは自分で言うことじゃないか……)。】


「ジャンヌいらっしゃい、今日は?」
「店のレーズンパンあるだけください。レーズンパン以外要りません」
「レーズンパンだけでいいの?珍しいね」
「今日はレーズンパンの日ですから」
「そ、そうなんだ……」
(なんでこんな殺気立っているんだろう……)
「団長にはレーズンパンでも食べさせておけばいいんです」
(喧嘩か……)

 

【時には喧嘩したりとか、仲違いしたりとかもあるんだけど、ぶつかるのも怖がっちゃいけないんだ。自分を大事にしなきゃいけないけど、他のヤツを大事にしたいんだったら、なおさら、ね。中には自分そっちのけで他のヤツのことを大事にしたいと思ってるようなヤツがいる。というより、この村には自分そっちのけで他の人の心配をするヤツが多い。】

 

「デニちゃんから本さ届いたのかい! 見せて見せて!」
「まさかこんなに早く届くとはね。びっくりだ。あ、ヒルダによろしくだって」
「やいや、たいしたポップになってるしょ。……この絵パンちゃんとデイちゃんでないかい?」
「やっぱりそうだよね、これ。このエプロン姿、お姉ちゃんそっくりだもん」
「あ、そいえばこないだテイラーさ嬉しそうにエプロン仕立ててたんだわ。パンちゃんさプレゼントするんでないかい?」
「はあ!? いいよ別に、このエプロンで! 自分の服もろくに手入れできない奴のエプロンなんて!」
「手入れ?」
「昨日店に来た時、左腕の袖の一番端のボタンが糸緩んで取れかかってたんだよ。仕立屋のくせに!」
「え、そうだったの?全然気付かなかった」
「へー、デイちゃん気付かねかったのにパンちゃんさ気付いたのかい。よーく見てるべさ」
「……い、いや別にジロジロ見てたわけじゃ!」
「『ああこれは失礼、紺屋の何とやらですね』だべ?」
「いいよ真似しなくて!!」

 

【そんなヤツらが互いに相手の心配をして大事にするから、結果的に皆が大事にされている。
みんな、本当にいい奴らだ。ついでに言うと、僕はエスターのことを、一番自分のことをそっちのけで他の人の心配をするヤツだと思ってる。
だから、いつでも帰っておいで。エスターがリクエストした、デニッシュを焼いて待ってるよ。
                                                                                                                             敬具 パンジー】