文豪の書物置き場

文豪タウンが書いた創作物を置いています。本ブログ内の記事はすべてフィクションです。

遠雷

   崖の上から見る景色は、いつも以上に境目がなかった。空には雲一つ無く、海には船一つなく、ただ海が太陽の光を反射し、地平線が広がってるだけだった。風は少し強くて、頭に撒いたタオルをかすかになびかせていたが、肌寒さを感じる程ではなかった。とはいえ、陽射しから察するに、まもなく秋が終わり冬がやってくるのだろう。

   ノエルはいつものように、ケースからアルトサックスを取り出した。

  

 

   あれだけ苦戦したマウスピースの咥え方も、最初は訳がわからなった運指も、今では何も意識しないでできるようになるのだから、人間の学習能力はすごいな、とノエルは吹きなから思った。その一方で、肺活量がなかなか上がらないことに苛立ちも覚えていた。今日もいいペースだったのに、サビを終えてからの間奏からパワーが無くなっていったのが自分でもわかった。

  「いい曲じゃない」

   ノエルが曲を吹き終えて一息つくと、後ろから声をかけられた。振り返ると、画材道具一式を持った黒服の女性が立っていた。ジンジャーだ。

  「お世辞とか言わなくていいよ」

  ノエルはマウスピースを拭きながら声をかけてきた女性に返した。

  「お世辞じゃないわよ。いい曲。演奏に力が足りなかっただけ」

  ノエルは反射的にジンジャーを睨みつけた。しかしそれは、ジンジャーの指摘が正しいことを認めていることを物語っていた。ジンジャーはノエルが睨みつけるのも意に介せず、イーゼルを組み立ててキャンバスを置いた。

  「…‥ここにジンジャーが来るのって、随分久しぶりな気がするけど」

   ノエルは何も言い返せない気まずさを少し和らげようと ーもっとも本人にその自覚はあまりなかったがー ジンジャーに尋ねた。

  「うん、すごく久しぶり。ずっと絵を教えていたし」

  「教えてた?」

   「あ…‥」

  しまった、と言う表情をしてジンジャーは口を噤んだ。

 

 

  一週間ほど前の話。

  ジンジャーのアトリエ兼自宅に、青いベレー帽を被った可愛らしい女性が唐突にやってきた。

  「あの、私、ファンなんです!お願いします、弟子にしてくれませんか!?」

    顔立ちと声から少し幼い印象を受けたが、実際には自分と同じぐらいだろう。そんな想像をしていたジンジャーは、想像だにしなかった申し出に面食らった。

  「……え、ええと、名前は?」

  「ヘイゼルです!」

  ジンジャーは尋ねたが、実のところ、名前を知りたいわけではなかった。弟子入りさせて欲しいという申し出があまりに唐突で、どうしていいか分からなかったというのが正直なところだ。だが、ヘイゼルと名乗ったその女性は、どういうわけか名前を聞いたことを弟子入りの承諾の意ととってしまったらしい。

  「ジンジャーさん、ありがとうございます!!!!!」

  「え、ええっ!?ええと、あたし絵を教えるとかやったこと無いし全然うまくなる保証とかないわよ…‥」

  「大丈夫です!!がんばります!!よろしくお願いします!!」

  「よ、よろしく……」

   あまりにキラキラした満面の笑みで握手を求めるヘイゼルに、ジンジャーは応じるしかなかった。

 

 

   陽が落ちてきた。しかしノエルは、最後まで息が続かないという課題をクリアできないどころか、回数を重ねれば重ねるほど音が荒れていく気がして険しい表情をしていた。

  「…‥ねえ。何か今日いつも以上にイライラしてない?」

  そんなノエルの様子を見兼ねたジンジャーが、ノエルに声をかけた。 

   「『いつも』以上?」

   ノエルはジンジャーの言葉に虚を突かれた表情をした。

   「え、気付いてないの?」

   「気付いてないって……」

   「少なくとも」

  ノエルが自覚していないことをわかったジンジャーは、ゆっくりとした口調でノエルに話した。

  「そのアルトサックスを吹いている時は、いつもより怒っているような感情が出てる。フルートの時はそんな感情は出ていない。なぜかはわからないけど」

 

 

  ノエルの兄、ルーサーはこのアルトサックスをよく吹いていた。ルーサーのサックスは、時には力強く躍動感が溢れて、時には静かで切なさを覚えるようなサックスだった。ノエルはそんなルーサーの演奏が好きだった。自分のフルートは優しくていい音色だとルーサーは褒めてくれたが、それよりもルーサーの、アルトサックスの力強い音色はノエルの憧れだった。

  そのルーサーはこの村にもう居ない。

  ルーサーは「船乗りになって海を渡る」という言葉とアルトサックスをだけを残して海を渡っていった。  

  今もルーサーは、この崖から見える海の何処かを勝手に航海しているのだろう。何時帰ってくるかも分からない。そもそも、もう帰ってこない可能性だって、今生きていない可能性だってある。ルーサーの事を考えていてもぐるぐる思考が回るだけで何も結論に辿りつけない。

  だから、ノエルはルーサーのことを考えるのをやめることにした。

 

 

  ジンジャーの指摘にノエルは言葉を返すことができなかった。ジンジャーの指摘は正確だった。ただ一点、「なぜかはわからない」という点を除いて。だからこそ、ジンジャーの指摘をノエルは黙って飲み込むしかなかった。

  

  「……ジンジャーは、その弟子のヘイゼルに絵の描き方を教えてるの?」

  ノエルはアルトサックスを片付けながら、ジンジャーに尋ねた。

  「……あんまり」

  確かにジンジャーは積極的に絵を教えることはしなかった。しかし、ヘイゼルが弟子入りする時に、「絵を教えられる保証はない」とヘイゼルに明言し、その上でヘイゼルは弟子入りの意志を変えなかったので、ジンジャー自身に落ち度があるわけではない。けれど、最初こそどのように対象をデッサンするのかなど、ジンジャーなりに師匠らしくヘイゼルにレクチャーをしていたが、すぐに教えられるネタは尽きてしまった。

  「それ、ただの付き人なんじゃないの?」

   「付き人って…‥」

  しかし、ノエルの言葉にジンジャーは何も言い返せなかった。確かに消耗品が足りなくなりそうな時はすぐに補充品を調達してくれたし、道具が傷んできた時には新製品のカタログを用意した上で、的確な助言までしてくれた。ヘイゼルのアドバイスで新しく購入した筆のおかげで、今まで苦労していた色塗りが嘘のように楽に塗れた時には、信じられないと思った。

   だからこそ、なぜヘイゼルが自分に弟子入りさせて欲しいと言ってきたのか、ジンジャーにはわからなかった。

  「あれだけわかってるんだったら、わざわざあたしのところに弟子入りなんかしなくたって描けると思うんだけど…‥あれ?」

   「どうしたの?」

   何とはなしにノエル呟いたところで、ジンジャーは気付いた。

   「あたしヘイゼルの描いた絵、見たことない……」

 

 

  「ヘイゼル、描いた絵見せて!」

   アトリエに戻るやいなや、ジンジャーは配達された絵の具のチューブを整理していたヘイゼルに呼びかけた。

「え、ええっ!?」

  突然の呼びかけにヘイゼルはびっくりし、絵の具チューブを落としそうになった。 

  「でもでも上手く描け……」 

  「いいの!とにかく描いて!!」

  ジンジャーは、自分の予想に確信を持った。 理由はわからないけど、ヘイゼルは絵を描くのを怖がっている。

 

 

  「ヘイゼルは、その絵を見てどう思う?」

  「どうって…‥」

  ヘイゼルは言い淀んだ。 ジンジャーに絵を描くように言われ、何も描きたいものがなかったので仕方なく今夜の料理に使おうと思っていたキャベツの絵。上手く描けたとも、だからといって下手くそとも思えなかった。要するに、感想は無かった。

「感想は特に無し?」 

「え、ええっと…‥ないです…‥」

  仕方なくヘイゼルは思った通りのことを正直に述べた。

 「そうよね。いきなり『絵を描け!』って言われて描いたんだからあるわけないわね」

「ジンジャーさん?」 

  感想が無いことを肯定されるとは思わなかったヘイゼルは、少し驚いた様子でジンジャーを見た。

  「大事なことを教え忘れていたから、よく聞いてね。嬉しい、悲しい、怒ってる。なんでもいいんだけど、そう思ったらその気持ちは絶対覚えてて」

  「気持ちを…‥?」

  「そう。……何かを表そうと思ったら、気持ちは避けて通れない。例えば、怒っている気持ちと悲しい気持ち。どっちも味わいたくない嫌な気持ちかもしれないけど、そんな気持ちが助けてくれることがある。絵を描くときや、詩を書くとき、あとは音楽を作って演奏する時もね」

  「ジンジャーさんも、そんな気持ちを持って描いているんですか…‥?」

  「もちろん、その時味わった時のような強い感情はいつまでも持っていられないけどね。つらいし。でも、中にはそんな強い感情をいつまでも持ち続けている人がいるの。そんな人は、いろんな人の気持ちを動かすだけのパワーを持っているんだけど、辛い気持ちに苦しんでる。苦しみながら生み出していく」

  いつになく真剣なジンジャーの言葉を、ヘイゼルは黙って聴いていた。

  「だからね」

  ジンジャーは続けた。

  「ファンを作るの」

  「ファン?」

  「そう。ファンは、自分の気持ちを聴いてくれる人達だと思って。だからその人達を大事にしないといけない」

  ジンジャーはアトリエの奥にある、少しすすのかかった絵を持ってきた。

  「そして、そのファンに最初に自分がなるの」

 

 

  雲一つない青空とどこまでも続いていく地平線。思ったより風が強く寒いため、絵を描く意志は折れたけど、この景色はとても綺麗だとヘイゼルは思った。寒さを堪えながら景色を眺めていると、後ろから声をかけられた。ヘイゼルが振り返ると、楽器のケースを右手に持ち頭に黄色い布をなびかせている男の人が居た。

  「そこ、いいかな?」

  「え……?」

  「そこで楽器の練習をしたいんだけど」

  「え、あ、はいすみません!」

   ヘイゼルは慌てた様子で下がりノエルに場所を譲った。

 

 

  あと一歩が届かなかった。ようやく息は最後まで続くようになった。でも、まだ息が続くだけだとノエルは思った。もう少し、あと少し。でもまだ、届かない。

  「あの、すごいですね!!」

  演奏を聴いていたヘイゼルが、ノエルに声をかけた。

  「すごい?」

  「すごく気持ちがこもってると思いました!こんなに気持ちが伝わってくる演奏ってすごいです!」

  「気持ちが……?」

  「すごく何か待ち遠しい感じがして、でも寂しい感じとかもあって、すごいです!」

  「…‥ありがとう」

   別にそんなこと感じていないけど、とノエルは思ったが、すごいを多用するヘイゼルの言葉に悪い気はしなかった。

  「いつもここで演奏しているんですか?」

  「大体はね。天気が悪かったらさすがにやらないけど」

  「じゃあここに来れば……あ、お名前教えてくれませんか?」

 「ノエル。君は?」

 「ヘイゼルです!ここに来ればノエルさんの曲が聴けるんですね!」

  ああ、彼女がヘイゼルか。確かに青のベレー帽をかぶっていて画材道具も抱えている。ノエルは納得した。

   「ヘイゼルは絵を描くの?」

   「あ、はい、この間まで弟子入りしていたんですけど、クビになっちゃって」

   「クビ!?」

   ノエルは驚いてヘイゼルを見た。あまりにノエルが大きなリアクションを取るのでヘイゼルもつられて驚いた。

   「あ、別に何かしたわけじゃないですよ、本当に。ただ、ジ…‥先生が色んな所を見てこいって」

  「色んな所?」

  「そうしないと、私がいつまでたっても先生のところにいるから、そういうのは良くないって……」

  「ふうん……で、どういうところへ行くつもりなの?」

  「こことか!」

  「え、ここ?」

   ノエルは首を傾げて尋ねた。

  「ここ、すごく見晴らしがいいじゃないですか!それにノエルさんの曲も聴けますし!」

  「自分の好きな場所を探すってこと?」

  「はい!私、嬉しいことがあったら、絵を描きたくなるんです!それがわかったから、そういうところがありそうな場所を探しているんです!」

  ヘイゼルは嬉しそうにノエルに話した。確かに、もう冬になろうとしているのに、風の強いこの場所で薄着なのにも関わらず離れようとする気配がない。ヘイゼルがここを気に入っているというのは本当なのだろう。

  ふと、ノエルは思った。

  「さっき嬉しいことがあったら絵を描きたくなるって言ってたけど、どういう意味?」

  「えっと。気持ちが大事なんです」

  「気持ち?」

  疑問に思うノエルにヘイゼルは説明を始めた。

  「嬉しい気持ちとか、悲しい気持ちとか、怒ったりする気持ちとか、そういうのを大事にしないといけないんです。先生がそう言ってたんですけど、私もそう思います。私は嬉しいことがあったら、それをみんなに『嬉しいことがあったー!』って伝えたいんですけど、そういう時、絵を描きたくなるんです」

  画材道具をカバンから取り出しながらヘイゼルは語り続けた。

  「悲しい気持ちとか、怒ったりする気持ちとか、そういう気持ちになった時に絵を描きたくなることは、私はよくわからないんですけど、でも先生は、悲しい気持ちを大事にして描いているって言っててすごいなあって」

  「悲しい気持ち……」

  「それから中には、すごく怒った気持ちを抱えている人もいて」

   怒った気持ち、 という言葉にノエルは少し眉を動かした。

  「そんな人はいろんな人の気持ちを動かすパワーがあって、でもその人は苦しみながら生み出しているって」

  「君もそう思う?」 

  ノエルが問いかけた。

  「私は……そんな人に会いたいです。そんなに苦しんでいるのに、人の心を動かす作品を作れるなんて、すごく立派な人だと思います。……先生がそうでしたから」 

 

 

  いつのまにか、東側に黒い雲が集まってきていた。

  「……これ、雪が降るかもね」

  「雪降るんですか!?」 

  「何でそんなに嬉しそうなの」

   東の黒い雲を嬉しそうに見つめるヘイゼルにノエルは尋ねた。

  「楽しいじゃないですか!雪ダルマとか、ソリとか!」 

  雪が降ると決まったわけでもないのにはしゃぐヘイゼルに少し呆れた様子で、ノエルはアルトサックスをケースに仕舞った。

  「帰るんですか?」

  「天気が悪くなりそうだからね」

  「あ、じゃあ食堂に来ませんか?」

  「食堂?」

  「最近、住み込みで食堂でアルバイトしているんです。美味しいですよ、お好み焼きとか、きんぴらゴボウとか、エスカロップとか!」

  ノエルはヘイゼルの紹介してくれた料理がどんな料理か想像がつかなかったが、ちょうど空腹を覚えていたので、ヘイゼルの申し出には少し心が動いた。

  「…‥わかった。行くよ。で、お願いがあるんだけど」

  「はい、何ですか?」

  「ヘイゼルの絵、見せてくれない?」

   ジンジャーの弟子だった人が、嬉しい時に描く絵ってどんな絵なんだろう。ノエルはそんな好奇心から聞いてみた。

  「…‥は、はい、ありがとうございます!!!」

    ヘイゼルは顔を紅潮させて、ノエルに感謝の言葉を伝えた。

  「え、え、何でそんなに赤くなるの…」

  「だって、ファンになってくれるかもしれないと思ったら嬉しくて……」

  「ファン……?」

   ノエルはヘイゼルの絵をちょっとした好奇心で見たいと思っただけだ。実物を見たことが無いので、ファンになるかどうかは全然わからない。だが、あまりに嬉しそうなヘイゼルに対して、冷静に事実を伝えることが今のノエルにはできなかった。

  「……まあ、ファンが増えるのはいいことなんじゃないかな。自分の作品を見てもらえるのは励みにもなるし」

  「本当ですか!?じゃあ、私もノエルさんの曲これからも聴きます!」

  「えっ……」

   一般論で話を誤魔化そうとしたノエルに対してヘイゼルが告げた言葉に、ノエルは完全に虚を突かれた。

   「私、ノエルさんの曲のファンです!」

  全力で告げるヘイゼルに、ノエルは「お、おう」と顔で表現した。どんな顔をすればよいのかわからなかった。

 

 

  「あ!」

  「雪だね」

   食堂へ向かう道中、ノエルの予想通り雪が降ってきた。

  「これ積もるんじゃないですか!?」

   「積もりそうだね」

    はしゃぐヘイゼルにノエルは冷静に答えた。例年より降るペースが早いし、水っぽさが少ない。このペースで降れば明日の朝には雪だるまが作れるくらいにはなるだろう。でも、それをヘイゼルが知るのは明日の朝でいいと思い、ノエルは何も言わなかった。

  「お腹が空いてきたね」

  「私もです。お好み焼きもきんぴらゴボウもエスカロップも、すごく美味しいんですよ!楽しみにしててください!」

  「そんなに食べられないよ」

  「大丈夫です。ファンになりますから、食べられます!」

   ヘイゼルの言っていることは無茶苦茶だったが、ノエルが空腹で料理を楽しみにしていたのは事実だった。

  (ファン、か……)

  とにかくルーサーを負かしたい一心だけで演奏していたから、誰かのファンになる、ということを全然考えてなかったな、とノエルは思った。ルーサーのことを考えないようにしていたけど、結局ルーサー以外のことは考えてなかったのと同じだった。

 

 

  ファンになれるといいな。

  ノエルはヘイゼルと食堂の門を叩いた。