文豪の書物置き場

文豪タウンが書いた創作物を置いています。本ブログ内の記事はすべてフィクションです。

アンダー・ザ・アンバー

「この喫茶店は、昔教会だったところを改築したんだよ」
  以前に悟史はそう聞いたことがあるのを思い出した。蔦が絡み付いたレンガ造りの建物は、悟史のイメージする純白色の教会とは異なっていたため、その話を聞いた時はピンとは来なかった。しかし、店内で椅子に腰掛け、何の気無しに天井を見上げると、色とりどりのスタンドグラスが見えた。それで、以前に聞いたその話をようやく悟史は納得したし、だとしたら、人間が死ぬことについて考えるには悪くない場所だと思った。気持ちの持って行き場の無い今は、この場所がとてもありがたかった。
 

「水琥珀、お待たせいたしました」
  カウンターに座り天井を見上げていた悟史の前に、マスターが水琥珀を差し出した。「水琥珀」というのは、この喫茶店「グダンスク」名物のメニューで、一言で言えばアイスコーヒーである。ただ普通のアイスコーヒーと違うのは、球体型に近いガラスのコップの中に、こちらも大きな球体の氷が入っており、その氷を取り囲むように15時間かけて水出しされた濃いめのアイスコーヒーが入っていることだ。暑い日にぐいと一気に飲み干すのではなく、少し口が寂しく、それでいて口の好みがうるさい客向けのコーヒーだ。このコーヒーは、ウイスキーよろしくマドラーを回して氷をカラカラと鳴らしながら、一口一口ちびりちびりと飲むコーヒーである。
  悟史は口の好みがうるさいわけではなかったが、口が寂しい時に飲むコーヒーとして水琥珀が好きだった。何より、この大きな氷が溶けて無くなるまでは水琥珀を飲むためにここにいられるので、しばらく居座る理由ができる。今の悟史にとっては、それが何よりありがたかった。
 

  一口飲んでアイスコーヒーの濃さを確認すると、悟史はすぐにマドラーを回してカラカラと氷を鳴らし始めた。マスターが洗ったコップを布で拭くキュッキュという摩擦音、悟史が氷を溶かしてマドラーとコップが触れ合いカラカラとなる音、外で雨が少し激しく地面と屋根をバタバタと打つ音。今、世界にはそれ以外何も存在しない。そうだと確認するように悟史はマドラーを回し続けた。世界が3つの音だけでしか構成されない世界は、居心地が良いわけではない。だが、静かだ。悟史は静かな世界が欲しかった。
 

 

「お父さん、今日は唐揚げがいい」
「授業参観恥ずかしいから来ないで」
  1人になりたいと思ったことは無い。一馬との2人暮らしは、毎日仕事との折り合いを着けられない苦労が続いた。わがままを言うなと一馬を怒鳴りつけたことも、それを反省したことも何度もあった。だが、一馬と離れるという想像は一度もしたことがない。
「どうしてお母さんは死んじゃったの?」
  昨日、悟史は一馬からそう聞かれた。一馬が修学旅行へ行く前の日だ。病気で死んじゃったと答えたが、あまり正確ではない。一馬はふーんと納得したようだったが、どれだけ納得したかはよくわからない。一馬に答えたあとで、いまだに自分は日菜子が死んだことに納得していないのだと、悟史は思った。
 
  日菜子の死因は大動脈解離。車を運転中に突然痛い痛いと苦しみ出し、救急車で運ばれて病院に到着したときにはすでに亡くなっていた。悟史は、病院で日菜子の顔を見ながら、そう説明を聞いた。
  悟史は、日菜子の会社の部下である石田が見せた沈痛な表情を思い出していた。
「私がしっかりしておらず、申し訳ありません……」
  日菜子が大動脈解離を起こしたのは、取引先に2人でお詫びに行った日の帰り道のことだった。当たり前だが、石田には何の責任もない。大動脈解離は石田が仕事でやらかしたかどうかには、何の関係もない。いつ死ぬかは変わらない。どこで死ぬかが変わるだけだ。
  じゃあ、なんで日菜子は死んだんだ?
  「なんでだよ……」
  大動脈解離が起こったから。悟史はそんな理由で日菜子の死を丸められてしまうことに納得がいかなかった。
   なんで死んだんだ、なんで死んだんだ。


 
  いまだに決着が付いていなくて引きずられているんだな……。
  頭の中でそんなことを考えながら、悟史はマドラーを回し続けた。マドラーのカラカラという音は、だんだん高くなっていった。
 
  悟史はマドラーを止めてコーヒーをちびちび飲んだ。日菜子が死んだ日の事を思い返してはちびちび飲み、一馬を叱りつけた後の気まずさを思い返してはちびちび飲み、一馬の質問に空疎な答えを返したことを思い返してはちびちび飲んだ。
  悟史は急に馬鹿らしいと苛立ちを覚えてコップを掴み、中にある水琥珀を一気にぐいっと飲み干した。まだ薄まり切っていないコーヒーの苦味と、底に溜まっていたガムシロップの甘さが口の中で混ざりあった。コップにはまだ氷が3割ほど残っていて、球体を維持していた。まだ氷は悟史の口に含むには大き過ぎた。悟史はしばらく氷からわずかに溶け出した水を喉に送ってから、氷を口に含むのを諦めてテーブルにコップをトンと静かに置いた。
 
「もう一杯、要りますか?」
  マスターが声をかけてきた。悟史は少し驚いて、「結構です」と答えた。もう一杯おかわりをして、ここに留まることに、なんだか決まりの悪さを感じていた。水琥珀の氷を溶かしてコーヒーを飲んだ。氷はまだ残っているが、コーヒーを飲み干したのだから、もうそれでいい。
「ごちそうさまでした」
  悟史はマスターに声をかけて勘定を済ませた。ガッチャンとレジスターの古めかしい機械音が鳴り、ジーという大きな音を立ててレシートが印刷された。こんなに古いレジスターだったっけ、と思いながら、悟史は今までレジスターにまったく気を遣っていなかったことに気付いた。今更気付いたことに悟史は苦笑いをしながら、お釣りとレシートを財布に入れた。


 
  木製のドアを開けると、雨が屋根を穿つ音が大きくなった。車の往来も比較的多く、タイヤがびしゃりと水溜りを跳ねていた。靴をあまり濡らしたくはないが、諦めるしかなさそうだと悟史は思った。帰ったらちゃんと手入れをしようと思いながら、悟史は立て掛けてあったチャコールグレーの傘を手に取って開いた。心なしか、いつもより勢い良く開いた気がした。