あれからXX年、彼女はバスを追い抜いた―――
「諦めろよ。もう潮時なんだろうよ」
隣の椅子が突き放したように私に言う。人間の世界でいうところの「古株」に私も隣の椅子もなった。バスが作られて運行が始まってから、乗客のバス酔いによる嘔吐や寝汗、ペットボトルで汚されたり、重すぎる乗客にスプリングが耐えられず破壊され、それっきりバスからいなくなってしまった椅子も決して少なくない。椅子は定期的にメンテナンスがされているが、その中でも私達は最も摩耗が少なく珍しがられているらしい。
「ここの椅子は他と比べてきれいだよな」
「だよなあ、同じようにメンテしているのに」
業者がそう言いながらメンテナンスをしているのを聞いた。心当たりはある。
隣の席を予約する客 -隣の椅子の「推し」だそうだ-は、本当に丁寧に椅子を扱ってくれるからだ。
そして私の席を予約する客 -私の「推し」だ- は、そもそも私に座らないからだ。
「しかし、もったいないことするよなぁ。窓側のお前の席なんて見晴らしもいいし、換気もできるから、バス酔いしやすい客にもありがたい席なのによ。予約して座らないって、全く何考えてるんだか」
「…事情があるんだと思う、きっと」
「はい事情ー。お前の推しの事情ってなんだろうな。大方酒を飲んでて間に合わなかったとか、そんなもんだろ」
「違う!!」
あまりに大きな声だったからか、隣の椅子がビクリとスプリングを揺らした。
「あ、ごめんなさい…」
私は慌ててシートを倒して彼に詫びた。
「い、いや俺こそ悪かった…」
隣の椅子はしばらく揺れていたが、次第に落ち着きを取り戻した。
「でもよ」
スプリングの揺れが収まった隣の椅子が、私に改めて話しかけた。
「バス会社にしちゃあ別に関係無いかもしれないけどよ。座ってもらえないのはやっぱり悲しいぜ。せっかく俺達も椅子として生きて椅子として死ぬのによ」
「…まあね」
「少なくとも俺はずっとタカシに座ってもらえて幸せだったぜ。最近は行きの時しか使わないし、『これが最後の着席かもしれない』と心している。いつかは俺達のことも忘れて、新幹線様に世話になるんだろうよ」
「そんな…!!」
「いいじゃねえか。俺達みたいな深夜バスより、新幹線の特等席・グリーン車にタカシが座ってると考えたら…そりゃ、悔しいぜ。なんであそこにいる椅子が俺じゃねえんだって、な。でもよ、タカシがグリーン車に座れているってのは幸せなことなんだよ。そうだろ?」
「……」
私は何も言い返せなかった。私だって丁寧に作られた椅子だ。シートのデザインも評判がいいし、幅も普通の深夜バスより広く快適だ。スペックだけなら新幹線の大混雑した自由席には勝てる自信がある。でも私達には新幹線には勝てない。私たちは深夜バスの座席だからだ。どんなに頑張っても日中には座ってもらえない。深夜以外の時間帯に移動すると決められたら、どうしようもない。
そして私は、新幹線のグリーン車の座席にはスペックでも勝てない。
「だからよ」
隣の椅子が話しかけてきた。物思いに耽っていたので慌ててシートを元に戻した。
「俺はこれからお払い箱になっちまって、溶鉱炉とかでドロドロに溶かされるかもしれねえけど、それでグリーン車の椅子に転生できるなら別に悪くねえや」
「え…待って、どういうこと!?あなた交換されちゃうの!?」
「ああ。スプリングの調整がおかしくなってな。調べてみたら片方がおかしなことになっているらしい。しかもシートもちゃんと倒れないと来た」
隣の椅子がシートを倒した。しかし、
「これが今の俺の限界だ。こんなの、人様が寝るには中途半端だろ」
角度にして30度もない。確かにリラックスできると標榜している座席としては不十分だ。
「いままで世話になったな、達者でな」
いままでと何も変わらない調子で笑いながら隣の椅子は言った。
「だからよ」
いままで聞いたこともない低い悲しい声で隣の椅子は言った。
「もう諦めろよ。俺達はいつまでも推しに座ってもらえるわけじゃねえんだ」
深夜バス。23時以降に運行され長い距離を走るバス。その間乗客は椅子に座ったままだ。だから椅子と乗客は深いつながりができると思っていた。さすがに国際線の飛行機には叶わないけれど、地下鉄よりも、特急よりも、新幹線よりも、国内の長距離を移動する限りは、私達が一番乗客とつながっている。そんな私達に「推し」ができるのは自然な話だ。でも「推しの命」は短い。人は深夜バスにいつかは乗らなくなり、新幹線や飛行機に乗って、私達を追い抜いていく。
いつか推しは、私達に別れも告げずにいなくなる。
「はじめまして!深夜バスのこと、右も左もわからなくてちょっと緊張していますが、一生懸命頑張りますのでよろしくお願いします!!」
新しく入った隣の椅子が元気に挨拶してきた。そんなに可動域を揺らしたら乗客が困ると軽くたしなめた。これから彼女も乗客に座ってもらい、推しができて、別れに涙するのだろうか。せめて乗客に汚されることのないように最後までまっとうできますようにと、心のなかで思う。さっき別れを告げた彼は、これから廃棄され、運が良ければなにかに転生できるのだろう。その時は、推しの近くにいられる何かになれるのだろうか。
ある日、自分の席の予約状況を確認して危うくスプリングが壊れそうになった。「推し」の名前があった。いつ以来だろう。どうして予約をしたんだろう。何があったんだろう。「推し」のことがぐるぐると前進をかけめぐっていった。今日は推しが来る、いや来ない、いや来る、いや来ない。私は脳内で花占いを始めた。
深夜の長旅を推しと共に過ごせるのはとても幸せなことであることを私は知っている。だからこそ、共に過ごせない寂しさも同時に知っている。隣の席には予約した乗客が予定通り座っている。心なしか彼女は嬉しそうに見える。きっとそうやって、彼女は彼女なりに「推し」に出会うことになるのだろう。
バスのアナウンスがして、ドアを閉めるための空気音が聞こえた。