文豪の書物置き場

文豪タウンが書いた創作物を置いています。

剣と蝋燭とタキシード

「…説明は以上となります」
「わかりました。それじゃあ、支払いはこれで」
  一通りの説明をソールから聞いたバロウズは、懐から小切手を取り出し、請求書の金額欄に記載されていた金額を記入しサインをした。
「…ありがとうございます」
  ソールは小切手を受け取り、封筒にしまい込んだ。
「…大変でしたね」
「仕方がない。いつかこの日が来ることは、わかっていたからね」
  病に倒れて半年、バロウズの父親は薬効の甲斐なくこの世を去った。この日が来ることはわかっていたとはいえ、いざ来てみるとなかなか気持ちの整理をつけられないのも事実だった。気持ちの整理がつかないまま、とにかくソールの指示に従い葬儀を執り行い、無事に葬儀は終わった。
  普段はふざけているソールがこの時は頼もしく見えた。葬儀屋という職業上、こういったシーンはよく見慣れているだろうに、それでも大変だったと声をかけてくれることが、バロウズには嬉しかった。
「それに」
  バロウズは続けた。 
「大変なのはこれからだからな」
「……もし相続の手続で不明な点がありましたら、いつでも遠慮なくお呼びつけくださいませ」
「ありがとう」  
 
  メイドに休暇を与えていたため、ソールが去った後の屋敷はバロウズは一人だけになった。一人だけの屋敷は、想像以上に静かで、ここを自分が支えなければならないのだという責任感を改めて肌で感じた。父親が存命だった時から「男爵としてやるべきこと」は移譲されていたが、父親が改めていなくなってみると、今まで感じたことのない重圧があった。
   これから、この重圧と向き合って行かなければならない。いきなり男爵のあれやこれやを引き受けることになったら、耐えられなかっただろう。結果的に、父親がめんどくさがりで良かったなとバロウズは思った。
 
 
  国境騎士団長ダンカンが村に来たというニュースは、瞬く間に ー主にホットなニュースが大好きな郵便局長のサミーとその部下のハイラムのおかげでー 村に広まった。騎士団定例の視察で、特に何か事件があったわけではないのだが、一部の村人は本格的に騎士団がきたという事実に盛り上がっていた。
  その「一部の村人」の1人であるキャロルは、ニルスとテイラーの店でさらに盛り上がっていた。壁に掛けてあった競技用の剣が珍しく、テイラーに尋ねたからである。
「テイラー、フェンシング優勝してるの!?すごい、めっちゃ強いじゃん!!!」
キャロルは驚きと共にテイラーを見た。
「昔の話です」
「でもたまにバロウズとやってて、いつも勝ってるじゃん」
「いつもではありません」
口を挟んだニルスに少し困った顔をしながらテイラーは答えた。
「いつもじゃないってことは、だいたい勝ってるんでしょ?ダンカンにも勝てるんじゃない?」
「勝てません」
  キャロルは蜜蝋と蝋燭の入った籠を机の上に置き、背広にブラシをかけているテイラーに問いかけたが、テイラーは素っ気なく答えて背広にブラシをかけ続けた。
「あのサーベル、騎士団の人達が持ってるのとなんか違うけど、競技用だから?」
「あれはサーベルではありませんよ」
「え、違うの?」
「あれは『エペ』です。競技によって剣が違うんです」
 「…ホントだ。刃が違う」
  キャロルは珍しそうに掛けてあったエペを見た。確かにキャロルの知っているサーベルと違い、斬るための刃が無かった。
「でも、テイラーってそんなにフェンシング強かったんだったら、なんで騎士にならなかったの?」
  麦わら帽子を手に取りながら、キャロルはテイラーに再び尋ねた。
「……言われてみたら、そうだね」
  ふと気づいたという感じで、ニルスがキャロルにうなづいた。ニルスも知らなかったらしい。
「テイラー、なんで騎士団目指さなかったの?
「……目指さなかったわけではありませんよ」
  テイラーはブラシを掛け終えた背広を軽く整えて答えた。
「でも、これで良いんです。私は仕立屋がやりたかったのですから」
「…ふーん」
  全然納得していません、という顔をしてキャロルが答えた。
「ほら、騎士団の候補生って、みんな強いからテイラーも刃が立たなかったんじゃないかな」
「まあそんなところです」
「…ふーん」
  ニルスのフォローに対しても、キャロルは顔を変えずに答えた。
「なんでそんな顔してるの…‥?」
「だって、フェンシング優勝してるんでしょ?騎士団の候補生も強いかもしんないけど、それにしたって、変だよ。なんで仕立屋なんてやってるの?」
「キャロル!」
  ニルスがキャロルに注意した。
「あ…‥ごめん。その、そういうつもりじゃ」
  仕立屋「なんて」という自分の失言に気付いたキャロルは、気まずそうにテイラーに謝った。
「いえ、気にしないでください」
  しばらく沈黙して、テイラーは穏やかな口調で縮こまってるキャロルに答えた。
「……私は、騎士団を目指していました。ですが、思ったんです。自分には向いていないと。私はあまり争うことに向いていないんです。それであれば、私は服をきちんと仕立てて、誰かの役に立った方がずっと良いです」
 
 
  夕方になるともう客は来ない。店を閉めるため、店内の帽子を片付けながらニルスはテイラーに尋ねた。
「そういえば、バロウズとはもうフェンシングしないの?」
「……難しくなるでしょうね」
  少し寂しそうにテイラーが答えた。
 
 
  テイラーがこの村に越してきた頃、バロウズがスーツを仕立てに来た。その際、フェンシングの話で盛り上がり「一度勝負をしよう」と意気投合した。
  初戦、バロウズは1セットも取れなかった。テイラーは久々のフェンシングで腕は鈍っていないか不安だったが、きちんと戦えて良かった、と思った。しかし、この結果がバロウズの闘争心に火をつけてしまったらしい。その後、バロウズは服の修理や小物の買い付けをする時にテイラーに決闘を申し込み、 テイラーはその都度バロウズ邸に出向きフェンシングをする、という生活が続いた。
「バロウズ、いっつもテイラーに勝負を申し込んで来たもんね」
「そうですね。いらしてくれる時に、ネクタイなども買ってくださって」
  いつのまにかバロウズはテイラーとニルスの上客になっていた。フェンシング以外にも認めてくれたように思えてテイラーは嬉しかった。
  その後もフェンシングは続いたが、剣術の先生 ーたまたま村に来ていた剣豪のムサシに指南を受けていると聞いたー に師事して稽古に励むバロウズと、仕立屋の生活に追われつつも新婚生活を楽しんでいるテイラー。たとえスタートラインが離れていても、差が縮まるのは当然だった。次第にバロウズがセットを取る回数が多くなっていった。それでも、テイラーには一日の長があり、まだバロウズがテイラーを上回るまでには至っていない、とバロウズは考えていた。師事と審判を務めてくれていた剣豪のムサシも同じ見解だったことから、バロウズはより一層訓練に励むことになった。
 
 
  テイラーにとって、あくまでフェンシングは趣味の領域の範囲だった。しかしバロウズにとっては、もうただの趣味では無くなっていた。いわゆる「武芸の嗜み」は、家の格を決定するための重要な要素だ。それでも家を継ぐ前は趣味の延長に近い話で許された。だからこそ、バロウズはテイラーにフェンシングを気軽に申し込めたし、テイラーも勝負を受けて立つことができた。
  バロウズの父親が亡くなり、バロウズは後を継ぐことになった。一週間後には戴冠式が控えている。そうなると、バロウズが武芸で勝つこと・負けることはバロウズ家に関わる話になる。もうテイラーと気軽に戦えるような話ではなくなる。勝つならまだしも、負けたら一大事である。
  「まだテイラーの方が強いの?」
  「…いえ、そんなことはありませんよ」
  テイラーは答えた。謙遜ではなかった。試合をすれば、バロウズに勝てる見込みはまだある。しかしその見込は最初に試合をしたときよりもずっと低かった。その「勝てる見込み」が無くなるのは時間の問題だろう。自分は武芸の道を選んだわけではないのだから。
  「…テイラー、聞いていい?」
  「なんでしょうか?」
  「僕、昼間にキャロルを叱っちゃったけど、キャロルの言いたいこと、分かるよ。なんでそんな強かったのに、やめちゃったの?」
  ニルスが店内に飾ってある帽子をまとめながら尋ねた。
  「……争うことに向いていないんです。私は」
  テイラーは帳簿をチェックする手を止めて、ニルスに顔を向けて答えた。
「向いていない?」
「騎士団に必要なのは、武芸だけではありませんでした。学問・団内の政治力・将来を見通す力・諦めない心。どれか一つが欠けていても、大成はしません」
  ニルスは帽子を片付ける手を止めた。 
「もちろん、最初から全てを揃えているような候補生はいません。修練所や実際の団内で鍛えていきます。……ですが、私にはどうしてもできなかった」
「できなかった?」
「……私には、人を率いること、それができませんでした。いくら剣が強くても、それでは騎士団は作れません」
「……」
  ニルスが神妙な顔で軽く頷いたのを見て、テイラーは続けた。
「……人には向き不向きがある。私はそう思います」
「……わかった」
  本当はもっとテイラーの話が聞きたかった。ただ、テイラーの顔を見ていると、何か悲しい思いをして騎士団を諦めたのだろう、とニルスは悟った。そんなテイラーにニルスは根掘り葉掘り聞く気にはなれなかった。けれど、まだニルスはもやもやした気持ちを抱えていた。
「じゃあ」
  ニルスは続けた。
「テイラーは、自分が仕立て屋向いていると思ってる?」
「向いています」
  テイラーに考えさせるために少し意地悪な問いかけをしたつもりだったが、テイラーが即答したので、ニルスは虚を突かれた顔をした。
「少なくとも、誰かと争う必要はありませんから」
「…そんなに争うの嫌なの?」
「嫌ですよ。ニルスは好きなんですか?」
「好きじゃないけどさあ……あれ?」
  ニルスが顔を背けてふとネクタイの置いてある机を見ると、脇に見慣れない籠が置かれているのに気付いた。ニルスは近づき籠を確認した。
「これ、蜜蝋……」
「キャロル、忘れていきましたね…‥」
  テイラーが呆れて言った。
「仕方ありませんね。届けたいところですが……私はバロウズのところに行かなくてはなりません」
「あ、いいよ、預かっておくから、気にしないで」
  テイラーはニルスに礼を言うと、壁かけてあったエペを外した。
「えっ?」
「ニルス」
  テイラーはニルスを向いて言った。
「今日が最後になると思います」
 
 
■ 
  左手にカンテラを持ちながら、テイラーはバロウズ邸へ急いだ。もうすっかり暗くなっていたが、思った以上にカンテラの灯りが明るく、道がいつも以上に見えた。右肩に抱えているエペと防具を感じながら、テイラーはバロウズとの試合を思い出していた。
  テイラーは騎士団のフェンシングを、「相手をねじ伏せるという意志」をいかに飼い慣らすかの勝負だと考えていた。意志が漏れすぎないように、絶えないように静かに構え、相手との間合いを測る。意志を出して突ければ勝ち、意志が漏れていることを悟られ躱されたら突かれて負け。シンプルだが、途方も無い。それが戦いに赴く騎士団なのだ。そう考えていた。
  バロウズとの試合は、それと比べたら楽だった。もともとの経験に加え、相手をねじ伏せるという意志はバロウズには無かったため ー無いわけでは無いけど、騎士団のそれに比べたらずっと少ないと感じたー 、静かに待って倒せば良かった。
  しかし、数ヶ月もすると、「相手をねじ伏せるという意志」が吸収されるかのような感覚を感じることがあった。いくら突こうとしても突けるイメージが湧かない。構えているしかないが、相手も構えたまま。決めあぐねた一瞬の虚をついて、バロウズに突かれる。次第に互角の勝負となっていった。
  今日はどんな勝負になるのだろう。
  いつの間にかテイラーはバロウズとの試合を楽しみにしていた。そして、これが最後になることに気付き、寂しいと感じた。
 
 
  テイラーはバロウズ邸に到着すると、壁掛けの松明の下にあるベルを鳴らした。しばらくすると、扉が開いてバロウズが顔を見せた。
「遅くなりました」
「いや、構わ……ん?」
  怪訝な顔でテイラーの後ろを見るバロウズ。何事かとテイラーが思った刹那、バロウズが声をかけた。
「キャロル?」
「えっ!?」
  テイラーは驚いて振り向いた。少し先に、蜜蝋と蝋燭の入った籠を腕に掛けたキャロルが、小さいカンテラを持ちながら立っていた。
 
 
  フェンシングの闘技場は地下にあった。それほど広いわけではないが、2人が試合をするのには十分な広さだった。キャロルはフィールドの四隅にある燭台に蝋燭を刺し、火を付けた。
「灯りはどう…ですか?」
「十分だな」
「問題ありません」
「見える」 
バロウズとテイラーとムサシが答えた。
(良かった……)
  蝋燭が問題なく付いて、キャロルは安堵のため息をついた。
   キャロルが蜜蝋と蝋燭を忘れたのに気づき、テイラーとニルスの店に慌てて戻ると、テイラーが店から出ていくのが見えた。はっきりとは見えなかったが、右肩に何かを抱えているように見えたのが気になって、キャロルはニルスから籠を受け取るとその足で慌ててテイラーの後を追った。暗い夜道を自分のカンテラと少し先をいくテイラーの灯りだけを頼りに歩くのは不安だったが、好奇心が勝った。
  だから、目的地がバロウズ邸だとわかった時は、しめたと思った。きっとこれからテイラーはフェンシングをするのだ。頼んで見せてもらおう。
  しかし、そう考えた瞬間、昼間のテイラーを思い出し、キャロルは不安に襲われた。テイラーはフェンシングの話題を余りしたがらなかった。そもそもこんな夜間に行くということは、あまりおおっぴらに出来ないからではないか。そこまで考えが至って、キャロルは安易にテイラーの後をつけてしまったことを後悔した。しかし、時過でに遅く、テイラーがバロウズ邸についてしまった。夢中でついてきてしまったが、帰り路も心配だ。
  キャロルは怒られることを覚悟で、バロウズとテイラーにフェンシングを見せて欲しいと頼み込んだ。
 
   バロウズはキャロルを歓迎した。バロウズ邸で水漏れのトラブルが発生して、蝋燭が駄目になってしまっていた。バロウズに蝋燭を売って欲しいと頼まれたキャロルは、
蝋燭代はタダで良いこと、フェンシングをした事は口外しない事を条件に、テイラーとの試合を見せて欲しいと懇願した。
  どのみち、承諾しなければ試合はできなかったので、バロウズはあっさり承諾した。
「助かったな。これで試合ができる。キャロル、ありがとう」
  すでにフェンシングのジャケットを着用したバロウズは、蝋燭の灯りに満足しながらキャロルに礼をした。
「い、いえ、そんな、どういたしまして」
  緊張のあまり、キャロルはかしこまりながらバロウズに礼を言った。
 「こちらも準備できました」
  こちらもジャケットを着用したテイラーがムサシに向って答えた。
「では始めようか」
  ムサシの号令でバロウズとテイラーが、フィールド中央近くの二本のラインにそれぞれ立ち、向かいあった。
「気をつけ。礼」
  2人は互いに礼をする。
「構え」
  マスクをかぶり、それぞれのラインにつま先をつけて構える。
「準備はいいか」
「はい」
  2人が同時に答える。
  いよいよだ。キャロルは両手をぐっと握り2人を見た。
「はじめ!」
 
■ 
  小刻みにステップを踏むテイラーに対して、バロウズは慎重に間合いを測り、時には素早く突いて牽制をした。狙うは、左足。牽制のための突きが引っ込んだ瞬間を狙って一気に踏み込み、突いた。
「一本!」
  ムサシの判定が地下のホール内に響いた。1点を先に取れた。
 
  これでいい。バロウズは何処かに必ず穴ができる、その穴を探して突く。今まで通りの戦い方をすればいい。 
  テイラーはステップを踏みながらも慎重にバロウズの穴を探した。右肩、右足、右手、左手。5点を取った。左手を狙う際にバロウズに突かれ失点してしまったが、それでも5対2ならば、十分だった。
 
 
  5対2となったところで休憩が入った。バロウズとテイラーは水差しからコップに水を注ぎ、飲み干した。ふう、とテイラーとバロウズのついた息の音が、キャロルには大きく聞こえた。その音を聞いてキャロルは喉が渇いている事に気付いたが、2人の勝負の最中と微動だにせず胡座をかいて座っているムサシがいるところで、水を飲む気にはなれなかった。
 
 
■ 
  試合が再開された。
  テイラーのステップは先程と変わらないように見えたが、バロウズの動きが少し違うようにキャロルには見えた。バロウズの動きが明らかに小さくなっていた。牽制するための突きもしなくなった。疲れている、と最初は思ったが、違った。バロウズが一気に踏み込んでテイラーを突く。テイラーがバロウズの突きに対応できていなかった。テイラーがバロウズを突く回数が少なくなっていた。
  (どうしたんだろう……?)
  とうとうバロウズが逆転した。8対7。
  キャロルは急にテイラーが調子を落としたように見えて、心配になった。
 
 
  急に穴が見えなくなった。
  穴が見えた、と思った瞬間、その穴が急に塞がり無くなっていく。テイラーが困惑していると、そのスキをバロウズに突かれた。次第に穴が見えなくなった。穴が見えなくなると、テイラーはバロウズをどう攻略したらいいかわからなくなってしまった。強引にこじ開けようとすると、その瞬間を狙われてしまう。
  攻撃を全て迎え撃とうとしている。
  バロウズの姿勢からテイラーはそう感じた。攻撃を迎え撃とうとするなら、こちらも、と思うものの、間合いが測りにくくなっていた。いつものバロウズとは何かが違っていたが、何が違うかはテイラーにもわからなかった。
  バロウズが視界から消えた。後ろに下がったが間に合わなかった。
「一本!」
ムサシの声が響いた。右のつま先を突かれていた。9対7。あと一点取られたら負ける。
「はじめ!」
お互い構えたままだった。
  どれくらい時間が経ったのか、テイラーにはわからなかった。むしろ、時間が止まってしまったような感覚すら抱いていた。
  バロウズが堂々と対峙していた。動けなかった。
(なんだ…‥?)
  重圧だった。目の前にいるバロウズはいつものバロウズに見えた。しかし、全身からの感覚が普段のバロウズでは無いと告げていた。その感覚は重さとなりテイラーを縛り付けた。動いてはいけない、と感じた。動いた瞬間、突かれる。しかし、バロウズは動く気配が無かった。
  間合いを測るため少しずつ後退してみたが、バロウズはぴったり距離を保って近づいてきた。バロウズは適切な距離を把握している、とテイラーは思った。テイラーは適切な距離がわからなかった。バロウズの適切な距離を外すのが精一杯だった。思い切って後退し、ステップを踏み、突いた。しかしバロウズは軽く弾くだけだった。
  もう、踏み込むしか無かった。だが、バロウズには穴が無い。どこをどうやって穴をこじ開けるか、探った瞬間だった。
  バロウズが動いた。
 
  
「気をつけ。礼」
  ムサシが号令をかけた。バロウズとテイラーはお互い礼をし、近づいて握手をした。
  バロウズに久々に負けた。記憶にある限りでは、今回の勝負も含めて18勝15敗。勝率はまだテイラーの方が高い。
  でも、もうバロウズとフェンシングはできない。ずっと勝率はテイラーの方が高いままだが、これからバロウズと戦っても、勝てる見込みはない。テイラーはそう確信した。
 「参りました」
  テイラーはバロウズに向かって言った。心から参ったと感じた。
「ありがとう」
  バロウズは小さく言うと、テイラーに軽く礼をした。 
「ありがとうございました。……力不足でした」
  テイラーは審判を務めてくれたムサシに、静かに答えた。
「……もうフェンシングはしないのか?」
  えっ、という表情でキャロルはムサシとテイラーを交互に見た。キャロルは困惑してたが、テイラーはムサシの質問にはっきりと答えた。
「はい、私はもうフェンシングはしません」
  笑みを見せながらテイラーはムサシに答えた。
 
 
  すっかり夜も更けていた。遅いから泊まって行きなさいというバロウズの申し出は有難かったが、帰って仕事をしないと間に合わない。固辞してテイラーはキャロルと一緒に帰り路を歩いた。
「テイラー……」
「どうしました?」
「…ごめんなさい」
「どうして急に謝るんですか?」
テイラーが少し困惑しながらキャロルに聞いた。
「後をこっそりつけたりして、ごめんなさい。すごく嫌なことをしちゃった……。それに、テイラーの気持ちを考えないで、試合を見たいとか言い出して」
 キャロルは俯きながら答えた。謝る時はテイラーの顔をちゃんと見て、と思ったが、いざ言葉に出すと強くやましい気持ちに襲われ、テイラーの顔を見ることができなかった。
「そうですね」
  怒っている。キャロルは申し訳無さでいっぱいになった。
「私もキャロルがそんなに本気でフェンシングを見たいとは思っていませんでした。お互い気持ちをわかっていませんでしたね」
キャロルはテイラーの顔を見た。テイラーも俯いていた。
「……テイラー、フェンシングもうやらないの?」
  キャロルは顔を前に戻して尋ねた。
「当分しません。他にやらなければいけないことがあることが、よくわかりましたから」
「やらなきゃいけないこと?」
「服の仕立です」
  テイラーは静かに答えた。
「え、いつもやってるじゃん」
「足りていなかったんですよ」
  意味がわからないと困惑するキャロルにテイラーは続けた。
「バロウズは、男爵になっていたんです。今までと違った。だから勝てませんでした」
「……ごめん、よくわからない」
「キャロルは、蝋燭を作っている時、どんなことを考えていますか?」
「どんなことって……」
  メイソンが教えてくれたロウソク作り。最初はメイソンが喜んでくれたり、部屋が明るくなったりいい匂いがするのが楽しかった。ロウソクを作っている時は、そんな感じだ。
「楽しい……?」
  キャロルは自信なさげに答えた。多分テイラーの求めている答えとは違うのだと思ったが、他に適切な回答が見つからなかった。
「楽しいのは良いことだと思います」
  テイラーは静かに答えた。
「ずっと楽しく続けられていたら、それで良いのだと思います。では、楽しく続けられなかった時はどうしましょう?」
  キャロルは試しに想像してみたが、ロウソクを作ることが楽しくないということが、あまりピンと来なかった。例えば明日までに数百本のロウソクを作らないと怒られるとなったら嫌になると思うけど、現実的にはありえないし、自分が数百本のロウソクを皆が本当に使ってくれるのならとても嬉しいとキャロルは思った。
「……わかんないよ。ロウソク作るのやっぱり楽しいもん」
「なるほど」
  テイラーは感心したように頷いた。なぜテイラーがそんな頷き方をするのかキャロルには見当がつかなかった。
 
「自分がそれほど望んでないことを、引き受けなければならないことがあるんですよ。そういう時にどうするか。自分がそれを望んでいたことにするんです。どうせ引き受けなければならないのなら、自分でそれを望んでたことにして、徹底的に引き受ける」
「自分が考えていないのに?嫌なのに?」
「はい。そういうものだと思ってください」
  キャロルは納得がいかなかったが、ここで飲み込まないとどうしようもなかったので、頷いた。
「あまり大きな声で言わないでほしいんですが、バロウズはそれをやったんです」
「バロウズが?」
「元々バロウズはあまり家のことは考えていませんでした。それがある日から変わったんです。進んでいろんなことを引き受けました」
  バロウズがテイラーにフェンシングを挑んだのも、武芸を磨くきっかけの一つにしたかったのだろうな、と今になってテイラーは思った。
「ずっと楽しんでやる人は強いです。だからキャロルは素晴らしい蝋燭屋になると思いますよ」 
  唐突に褒められてキャロルはびっくりした顔をした。 
「そしてもう一つ、強いのは」
  びっくりした顔をしたキャロルをしっかり見つめ返してテイラーは続けた。
「楽しいことも楽しくないことも、全部きっちり引き受けることを決めた人です」
 
 
 ■
 キャロルを送り届け、テイラーは店に戻った。だいぶ夜も更けてしまったが、まだやらなければいけないことは残っていた。裁断用の机の近くにシルクハットがあった。テイラーはシルクハットの近くにメモ書きがあるのに気付いた。
 
【テイラーへ
    シルクハットはできたよ!我ながらバッチリだと思います。
    明日は仕入れに行くから店にはいないけど、もしバロウズが来たら、試着の対応はお願いします。
 それじゃあ、よろしく!タキシード作り頑張って!
                                                                                                  ニルス】
 
  シルクハットはひと目見ていい出来だとわかった。ニルスもキャロルと同じく、帽子を作るのが楽しくて仕方がないのだろうな、とテイラーは思った。
   テイラーは奥から型紙を取り出した。型紙に触れると先ほどまで勝負をしていたバロウズのことを思い出した。バロウズが着るイメージができた。上質なシルクを入手するのに手間取ってしまっていたため、少し工程が遅れてしまっていたが、ようやく取り戻せる。
  手が汗ばんでいた。自分でも上気しているのがわかった。気持ちを落ち着かせないと荒い裁断をしてしまいそうだが、型紙は、いま一気に仕上げてしまいたかった。
  バロウズは男爵として生きていく覚悟を決めていた。それを即位式で皆にきちんと表現できるようなタキシード。あそびは要らない。シンプルに仕上げればいい。しかし、「シンプルに」というのはハードルが高い。全く誤魔化しが効かない。
  服は仕立屋の胸先三寸で全てが決まる。きっちり着こなせたら着る人間の手柄、決まらなかったら仕立屋の責任。しかし決まらなかったら、泥をかぶるのは服を着ている人間だ。だったら、仕立屋は相応の覚悟を以って臨まなければならない。相手が覚悟を決めた人間なら、なおさらだ。誰かを支えたり助けることは、誰かの影で何かをすることではない。自分も同じくらいの覚悟を決めなければならない、ということだ。テイラーは心からそう思った。
  テイラーは切り終えた型紙を眺めた。
  ここから自分の勝負が始まる。これから始めるのは争いごとではない。だが、覚悟を決めなければいけないことに変わりはなかった。重圧を感じた。きっとバロウズが感じているのは、これとはまた別のもっと強い重圧だ。
 
  バロウズの重圧を引き受ける。
  テイラーは型紙に線を引いた。覚悟が決まれば、あとは一直線だった。


「大丈夫?クロワッサン食べる?」
  パンジーはイスの背もたれに背中をぴったりつけて休んでいるテイラーに声をかけた。戸棚から取り出したクロワッサンを皿にとり、マーマレードジャムの瓶と共にテーブルに置く。
「ありがとう」
  テイラーはパンジーに礼を言うと、背中を背もたれから離してマーマレードジャムを皿によそい、クロワッサンの端をちぎって付けて食べた。
「タキシードは仕上がったの?」
「なんとか。仕上がりました」
「そっか」
  パンジーはコーヒーを淹れたマグカップを机に置いた。
  仕立てが終わったのだから、普通はもっと晴れ晴れとした顔をしている。それなのに、今は複雑な表情を浮かべている。テイラーはその自覚があったし、パンジーがそれに気付かないはずがなかった。余計な気を使わせて申し訳ないとテイラーは思ったが、今は何も言わずにそばにいてくれるパンジーがありがたかった。
  ともあれ仕立は終わった。流石に疲れが溜まっていた。
「パンジー……」
「ん、なに?」
「……コーヒー、もう一杯ください」
「明日が定休日で良かったね」
  テイラーは軽く頷いた。パンジーは空になったテイラーのマグカップを持ち、台所に二杯目のコーヒーを淹れに行った。
  テイラーは帳簿を取りに行った。疲れているが、ベットに入っても寝付ける気がしなかった。それだったら細々した仕事をしていた方がいい。帳簿を机に広げて、バロウズのタキシードのページをチェックしたところで、パンジーがコーヒーを淹れて戻ってきた。
「ありがとう。パンジーはもう寝てて大丈夫ですから」
「ううん、もうちょっと居る」
「…すみません」
  テイラーは礼を言い、コーヒーに砂糖を入れて一口飲んだ。
「この間、バロウズとフェンシングをしたんです」
  テイラーはパンジーの顔を見ずに、ゆっくりと話した。
「途中から全く勝てなくなりました。うまく説明できないんですが……もう勝てない、そう思いました。今思えば、バロウズは覚悟を決めていたのだと思います。男爵としての覚悟を」
「うん」
「バロウズが…急に遠くに行ってしまったように感じたんです」
  別れを泣きたいわけでもないし、かといって壮行を喜ぶほど明るくなれるわけでもない。両方の気持ちがそれぞれあって、どこにも持って行くあてが無かった。テイラーはそういう感情が生じることは知っていたが、そういう時にどうすれば良いかは未だにわからない。ただ、自分が寂しいという感情を抱えているということは、パンジーに話していて気付いた。
「バロウズは、男爵になったんだよ」
「そうですね」
「でも、男爵になれたのはテイラーのおかげだと思うよ」
  パンジーはテイラーに言った。
「フェンシングもやったし、タキシードも作ったんでしょ?テイラーがバロウズを助けたんだよ」
「……はい」
  バロウズの父親が亡くなって大変だったときも、バロウズは仕立屋に足を運んでいた。きっとそれは、即位式に着るためのタキシードの相談や、気晴らしのフェンシングの誘いだけが目的ではなかったのだろう。だからパンジーは、テイラーがバロウズをずっと助けていたと思っている。テイラーが居てくれるだけで、バロウズは良かったのだと。
「即位式。僕は楽しみにしているよ」
「……一緒に見に行ってくれませんか」
「もちろん。タキシードも見たいしね」

  
  テイラーは朝焼けの中、仕立てたタキシードを見つめた。これをバロウズは着て、ニルスのシルクハットを被り即位式に臨む。
  腹が座った。テイラーは重圧を感じたがそれ以上に自信を感じた。自分にあるのは、仕立屋としての覚悟だけではない。ニルスもパンジーも居る。このタキシードは、バロウズのために作ったタキシードだ。バロウズはこれをきっちり着こなしてくれる。
  何の心配も要らなかった。


  即位式が終わったら、男爵の凱旋が始まる。シルクハットとタキシードを着たバロウズを見るチャンスはそこだった。
「早く早く!」
「随分気合入ってるなあ」
「パレードが始まるから!急いで!」
  バロウズの即位を祝福するかのように、雲一つない青空が広がっていた。のんびりとしたニルスと対象的に、キャロルは早く来てと急かすようにテイラー達を呼んだ。
「馬車は逃げないよ」
「でも、みんな来るから見えなくなっちゃうよ」
パンジーが諭すも、キャロルは自分の身長では人混みに埋もれてしまうことを心配していたため前の方を確保したがっていた。
「そりゃパンジーはテイラーに肩車してもらえばいいけどさあ」
「しないよ!」
パンジーがキャロルに突っ込む。
「おや、しないんですか?」
「テイラー!」
パンジーがテイラーに突っ込む。そんな中、ポンポンと砲の音がした。
「あ、始まる!」
  しばらくすると、前方で歓声が上がった。バロウズの馬車が来たのだろう。ニルスも、パンジーも、テイラーも、キャロルも、バロウズの晴れ姿が楽しみだった。
  4人は胸を踊らせながら馬車が来るのを待った。

短編小説の集い「のべらっくす」第25回参加作品 感想一覧

 遅くなりましたが、先日参加した短編小説の集い「のべらっくす」の参加作品の感想を書きます。

 

 

135.hateblo.jp

 医者との会話、 湯船での考え事、病気の発端とシーンの転換がはっきりしていて、会話もテンポよくスイスイと読みやすい物語でした。それだけにオチは予測して無くて「うわ、そっちか!」と一本取られたという感想を抱きました。凛子さんが可愛いです。

 

あと個人的に、

水面から出ている膝のふたつの山を見る。 胸がドキドキと鼓動を打っている。 耳や頬のてっぺんがポーっと熱を帯びている。 「のぼせちゃったかな」と思いながら、ゆっくり湯船から身体を引き上げた。

ある可哀想な右手の顛末。/【第25回】短編小説の集い(今回のお題は病) - 百三十五年丸ノ内線

 ここの「膝のふたつの山」から始まる、お風呂に使って考え事をしている描写がとても好きです。

 

 

www.logosuemo.com

 ある病がきっかけで誕生した新人類シンクロン。彼らのお陰で世界は争いのない平和な世界が築かれるが、シンクロンとなった神代暁はある病気に罹患し、シンクロンを人類に戻す薬を発明する。神代がそうせざるを得なかった難病とは?

 とにかく着想が素晴らしいです。設定はSFなんですが、人間が神格化された悲劇というのは、シンクロンに限らず現実世界にもありうるのかなと思いました。

この世界において、シンクロンは理想の人間像であり神であった。

【第25回】短編小説の集い 投稿作品 『シンクロン』 - ロゴスエモ

 

 短編小説だから仕方ないのですが、もっと深掘りした詳細なストーリーを読みたいなあと思える一作でした。

 

noeloop.hatenablog.com

 今回のお題「病」にストレートに呼応した作品だと思います。本当に病気の話と思いきや、だんだん話が読めてくるのが読者と咲の目線を合わせる形になっていて、コメディとして良いです。読み終わった後、タイトルをもう一度読んで爽やかな読後感を味わえました。

 

「というわけで、咲隊員、一緒に委員長しばきに行こう!」

友達と天然は青春の華 第25回短編小説の集い「病」 - 泡沫のユメ

 

 それにしても、この手の話は現実世界にあるのでしょうか、と思う男子校出身者。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 これは怖い。一人称の独白が続きどんな展開になるのかと思っていたら、静かな復讐劇を乗り越える話とは。確かにこれは一人称じゃないと成り立たないですね。後半、日記を渡されてから謎がスルスルと解かれていくところがヒヤリとしながらも面白く読み進められました。

 悲しい結末だけど、こういうのは大なり小なりある話なんだろうなあ。 

これから私がどう生きていくかはわかりませんが、まずは両親や祖父と真剣に向き合って行こうと考えています。祖母のことは未だに夢に見るほど好きなのですが、少しずつ忘れていかなければならないことは頭で理解しています。

満ち足りない ~短編小説の集い~ - さよならドルバッキー

  大好きな祖母と別れなければならないことを受け入れる決意が悲しいです。

 

diary.sweetberry.jp

 クトゥルフというブログタイトルから呪いとかのホラーだと勝手に先入観を抱いていたいので、オチにやられました。楽しいミステリー。

 あと、作者のなおなおさんが書いてたトリック、ちゃんと気付けてがちょっと嬉しかったです。息切れしているし里美ちゃんが来ていて「さ・・ちゃん」と行ってるから、てっきり同じ人かと思いきや。

 

その原因かどうかと言われると自信がなかったが、その不調は確かに先週末に幼馴染のさっちゃんと廃病院に探検に行った後から起こるようになった。

【第25回】短編小説の集い「心を蝕む」 - なおなおのクトゥルフ神話TRPG

 バッチリ原因でしたね。吊り橋効果。

 

syousetu.hatenadiary.com

「中学時代のあだ名は黒子、もしくはステルス」

「いつものTHE・忍者な俺どうした!?」

などなど、随所にあるフレーズが小気味よくて一気に読みました。演劇病というフィクションの病を元に、少年が抱く葛藤や恐怖を乗り越えるストーリー。1人で戦っていた漱也が戦いを終わらせる話、と読みました。心の中の戦いを終わらせるには、誰かに助けを求めるというのは、なんだか分かる気がします。

 

当時大好きだったゲーム「メタルギアソリッド」のスネークのような最強のスパイに生まれ変わったはずだったのに…。

第25回短編小説の集い参加作品ー演劇病 - 小説をちゃんと書こう

 メタルギアソリッドが出た時は、僕はもう大学生だったからこういうことはなかったけど、小学生だったら絶対真似していたし、心の中でなりきっていたと思う。

 

fnoithunder.hatenablog.com

  宇宙船団のリュウが病気になったルナを助けるために地底人に助けを求めるSF。リュウの必死さが悲しく、あまり明るい結末にはならなそうだと読み進めていました。エピローグでルナが地底人であったことは明かされるのですが、全部は明らかにならず、切ない読後感が味わえました。推測ですが、薬は地底人化するのを抑えるための薬で、ルナは観測という目的を離れてリュウに惹かれたのかな、と。

 的確なアドバイスになるかどうかはわかりませんが、リュウがルナを必死で思っているのは冒頭などでもわかるので、地底に行くまで医師を探したりする下りはある程度カットして他の要素を膨らましたほうが、より話が鮮明になるのかなと思いました。

 

novels.hatenadiary.com

 うーわー、辛いなあという凡庸な感想しか出せないくらい、描写がエグくて、加奈子と加奈子の母親が置かれた立場が辛すぎました。この物語はフィクションですが、もしこの通りの事件が発生したら、きっとこの通りの話になるのだろうとしか思えません。

 

一体誰が、加奈子を裁けるのだろう? 性被害者がやり返すことに対し、それがどうしてだめなのかを説明できる人がいるのだろうか。きっと、母親が生きている間中、加奈子の起こした事件は「さまざまな立場の人が議論するだけ」で終わる。加奈子は議論の真ん中に置かれているが、もう心はここにない。それが性被害によるものか、単に加奈子が狂ったのか、それがわかったところでもうどうしようもない。

【第25回 短編小説の集い参加作】白い部屋で彼女は - novelsのブログ

 議論しても結論が出せない事は、 どうやったら乗り越えられるのだろう。

 

masarin-m.hatenablog.com

 おっさんとして興味深く読みました。入院して自分たちが通常の社会から隔離された存在になって、いままでやってきたことができなくなったりした時、どんなことを思い何をするのか。 

だから、小杉さんが看護師さんたちに声をかけるのも、異常な状態か、人寂しいかどちらなのだと思う。話を聞いていて、後者である気がした。あの看護師さんに説明してもわからないと思うが。 私はもう少し熱心に小杉さんにつきあってあげようと思った。

第二十五回 短編小説の集い参加作品「入院中の出来事」 - 明日は明日の風が吹く

 僕は両方だと思いました。人寂しいのはその通りだけど、社会から隔離されて、カメラマンも諦めようとする事態、関わりを持てる人は主人公のような入院患者と看護師ぐらい。普段とは違う異常事態。普段の小杉さんは人寂しくてもそこまで話しかけないのでは、と想像しました。

その距離の近さとは、体育会系の部活の先輩・後輩のようなものだった。だから、男としてはそれほど不快でもない。もちろん、体調が万全ならば。患者はみな、少し痛みなどがなくなり、血液検査の数値に異常がなくなると、自分は完全に復調したと思い込む。退院したら、何かすごいことをしてやろうと思う。短期入院などではそうだろうが、長期の入院になれば、退院直後は、外界に身体をならすことくらいしかできない。入院中は自分がどれだけ保護されているかが、退院すると身にしみてわかる。

第二十五回 短編小説の集い参加作品「入院中の出来事」 - 明日は明日の風が吹く

 意見の全部には同意できないけど、この辺の語り口はとても良いです。

 

最後に自分の作品の振り返りを。

 

author-town.hatenablog.jp

 タイトルが先に決まりました。「あの人」というフレーズを妻側の人に言わせて、夫との距離が遠いことを意識させようと思いました。父親と子供が同じように小説を書くという着想はあったのですが、どうやって病気とリンクさせようか悩んだ結果、少しずつ喘息を悪化させて物書きにのめり込むことにしました。

 劇中作は龍一が会社勤めの経験をもとに書いた小説ですが、もっと劇中作であることを明示したほうが良かったですね。

 

 ちなみに作中の「ベルベラ」は、喘息薬「レルベア」のもじりです。

www.healthgsk.jp

 実在する薬品だから名称をそのまま使うのは避けたのですが、使っても良かったかな。

 

以上、振り返りでした。今月もできれば参加したい所存。

 

他の方々の振り返りはこちらからどうぞ。

novelcluster.hatenablog.jp

短編小説の集い「のべらっくす」第25回参加作品 「あの人、病気だから」

短編小説の集いというイベントをやっていることを知りました。

novelcluster.hatenablog.jp

 

今回のお第は「病」で5000字以内、というレギュレーションとのこと。

というわけで参加させていただきます。

 

----------------------ここから------------------------------------

あの人、病気だから

 

 「あの人、病気だから」

 襖をそっと開けて、ゴホゴホと咳き込む父親を心配して見つめる龍一に、真美は諭すように静かに告げた。病気なのだから、咳き込んで苦しむのは仕方のないことだ。それなのに、なぜお父さんは寝ないで机に向かっているのだろう。龍一にはわからなかった。

  今になって思えば、原稿の締め切りが近かったのだろうと想像はつく。だから、持病の喘息に耐えてでも書かざるを得なかったのだ、と。たとえその後、肺炎をこじらせて此の世を去ることになったとしても。

 

 

  「小笠原係長、RMSの東川さんです」

  「分かった、転送して」

  アシスタントの女の子には、密かに抱いた嫌な予感はおくびにも出さず、電話転送をお願いした。待っている最中に受信メールが来た。東川からのメールだった。

【ベルペラの荷離れ件数が不整合を起こしています】

 件名だけで言いたいことが分かる東川のメールは良いと龍一は思っていた。ただし、それはただの連絡事項の場合で、この後の電話のやりとりや対応策の協議を連想させるような件名は、あまりありがたくなかった。

 ごほごほと咳払いをしながら、龍一は転送された電話に出た。

 

 

「ベルペラ、アルザック、荷離れ件数全て一致しました」

「分かりました。東川さん、これでデータ復旧は全て完了した?」

「当日分は全て完了しました。…ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした」

「まあ、影響範囲が日次分だけで良かったですよ」

 ふう、と一息をついて龍一は時計を見た。23時30分。遅い時間だが、急がなくても終電には間に合う時間だった。東川からデータの件数が合わないこと、17時時点で原因が特定できないという報告を受けて、今日は帰れないことを龍一は覚悟していた。しかし、20時には原因が判明し、障害の影響範囲も調査が完了し、思ったよりも大きくないことが分かった。

「5時からの日次バッチは、立会どうするの?」

「中西が5時に出社しますので、中西にお願いしています」

「あれ、MMT移行テストの最中じゃなかった?」

「はいそうです。ただ、ウチの担当分のテストは7時に始まるので、それまでは待機と確認しをお願いしようかと」

 普段から顔色の悪い移行チームのサブリーダーの健康状態を思いながら、龍一は引き出しから薬入れを取り出し、オレンジの錠剤を口に入れ水で流し込んだ。

「…あれ?それ、アルザックですか?」

「ん?ああ、そうだよ」

「小笠原さん、喘息なんですか?」

「最近、咳喘息になっちゃってね。親が喘息でゴホゴホ言ってて苦しそうだなあって思っていたけど、まさかこの歳で自分がなるなんで思わなかったよ」

 軽く笑いながら、龍一は質問に答えた。東川は、納得したように龍一の机の上に置かれたのど飴と湿度計を見た。

「この会社にはずっとお世話になりそうですね」

「ホントだよ。会社を辞めても薬はやめられないからね」

 

 

  午前0時30分。締切日はあと1日、なんとか間に合いそうだ。龍一はそう思いながら、加湿器の給水タンクを取り出し、音を立てないように水を注いだ。本当は一刻も早く書き始めたいが、うるさくすると一秀と佐紀子が起きてしまい、面倒なことになる。はやる気持ちを抑えながら、龍一は給水タンクに水が貯まるのを待った。

 龍一は十分に水が溜まった給水タンクを慎重に運びながら、加湿器にセットしスイッチを入れた。「ピーッ」という音がやけに大きく聞こえ、一秀たちが起きてしまうのではとそわそわした。程なく、加湿器からしゅうしゅうという音とともに白い蒸気が上がってきた。

 準備は出来た。「33」というデジタル数字を見届け、龍一はPCの蓋を開けた。

 

【吉川はもう帰るのを諦めて、端末を起動し影響範囲の調査に乗り出した。レビューを午前2時にやるなんて正気の沙汰じゃない、ただのアリバイ工作で効果が得られるわけがない、それでしわ寄せはこういう末端に来るんだ。吉川はディスプレイに移る緑色のコマンド列を睨みつけながら、犯人探しを初めた。】

 

  喉の奥が苦しくなり、龍一は咳き込んだ。咳き込んだところで、マスクが無いことに気付き龍一は焦った。このままでは一秀が起きてしまう。咳が落ち着いたところで、龍一は慎重に目の前のコップの水を咳き込まないようにゆっくり飲んだ。

 

 

 「お父さん大丈夫?」

 龍一はびっくりして、声のした方向を見た。戦隊モノのパジャマを着た一秀が立っていた。

 「ごめんな、起こしちゃったか」

 「ううん大丈夫」

 一秀はそう言ったが、声の調子から明らかに眠いのが分かる。龍一はすぐに一秀を寝かせようと、そっと手を背中に寄せ佐紀子が寝ている寝室に誘導した。

 「お父さん病気なの?」

 「お父さん?ううん元気だよ。どうして?」

 「最近ゴホゴホって言ってる」

 「ああ、それはね、ぜんそくだからだよ」

 「ぜんそく?」

 「冬になるとせきをする、それだけ」

 「冬がおわったら?」

 「せきをしなくなる」

 「そっか」

 足取りと返事のおぼつかない一秀と一緒に、龍一は佐紀子の寝る寝室に入り一秀をそっと布団に寝かせた。

 「おやすみ」

 「おやすみ」

 

 【リーダーが出社しているのを、今月に入って見たことが無い。気になって聞いてみたら、先月末で離脱しているという。吉川は目眩がした。いくら非プロパーだからと言って、リーダーの離脱を知らせないなんて有りうるのだろうか。

 「吉川さん、約定画面なんだけど、3000件一気に更新できないのなんで?」

 業務チームの惣田からチャットメッセージが来た。そこの仕様はリーダーと調整をして運用で回避しようと決めたところだ。どうやらリーダーは業務チームと仕様を握っていなかったらしい。

 今月は長い戦いになりそうだ―――――――――。

 吉川は坂本にどうやって告げようか、】

 

 ごほっ、ごほっごほっ。

 龍一は発作が漏れないよう、布団を口に当てて必死で咳き込んだ。また一秀が起きてしまう。

 しばらくすると、咳が収まった。いつの間にか加湿器の音が聞こえなくなっていた。加湿器を確認すると、「E」のランプが点滅していた。随分時間が立っていたらしい。締切まで時間がないので、給水に向かう時間も惜しかったが、背に腹は代えられない。龍一は加湿器の給水タンクをそっと取り出し、風呂場に向った。

 

【リーダーになったはいいが、結局それは給与の高さとか、そうでないと年を取った時にやっていけないという虚栄心とか、そういう世間との柵の話であって、本当にシステムと向き合いたいわけではなかったのだ、ということを吉川はいやというほど思い知った。プログラムが動くのを見るのはなんとなく面白いが、ただ『なんとなく』である以上、必要以上に伸びる目の前のボックスのアニメーションには殺意しか抱けなかった。

 なんのためにこのボックスは伸びるのだろう。

 なんのためにこんなデータを書き込んでおくのだろう。

 なんのためにこんな仕様書をわざわざ書くのだろう。

 

 吉川がいつも抱いていた疑問に、今の吉川は答えが出せないでいた。】

 

 これで今月分の連載原稿は目処が付いた。空はまだ薄暗い。そうだ、今日は冬至だ。せっかくだから、今日はかぼちゃの煮つけを佐紀子に作ってもらおうか。

 そぼろタレがかぼちゃから垂れるシーンをイメージした瞬間、発作が来た。グエッホッホッと肺に響く音を立てて、龍一は咳き込んだ。冬はいつもこれだから困る。だが、不思議と冬になると執筆の調子が良くなる。咳のせいかどうかは知らないが、いつのまにか龍一にとって喘息は執筆の合図になっていた。今日は調子があまり良くない。一眠りしたら、多分原稿を書いたほうが捗るのだろう。

 龍一はグラスに残った水を飲み干し、布団についた。

 

 

 「お父さん、風邪なの?」

 一秀はランドセルを置いて母親に尋ねた。

 「原稿が終わって寝てるだけよ、でもあまり調子は良くないみたい」

 佐紀子は一秀に答えた。一秀は、そっとふすまを空けて中を見やった、父親は、時折苦しそうに咳き込んでいた。

 

 「咳がひどいみたいだね」

 「仕方ないわよ。あの人、病気だから」

 佐紀子はそう言いながら、カボチャを台所に運んでいった。

はてな題詠「短歌の目」第13回(2016年11月)参加

間が空いてしまいましたが、「短歌の目」11月のお題に参加します。

一年ぶりという事実にびっくりです。

tankanome.hateblo.jp

 

1.本

 友人に Kindle fire 見せられて 良い本だったと 勧められるも

 

2.手袋

 オーブンの グラタン皿を 素手で持つ 食卓に運ぶ 必要もなし

 

3.みぞれ

 みぞれ雪 観測上は 雪とする 少数派閥の みぞれ雨水

 

4.狐

   似ていると 言われることは 無いのだろう キツネ目の男 隣のテーブル

 

5.メリークリスマス

 内乱を 報じる記事に コメントし 鳥に刃を入れ  メリークリスマス

 

テーマ「酒」

  酒の味 大人になれば わかるよと 信じてグラスの 琥珀を睨む

  ごめんねえ 酔ってるからねと 免罪符 宗教改革 ルターよ集え

  ブラックを 必死に飲み干す 中学生 知らぬが仏 アイリッシュコーヒー

  フルカラー ボトルに向き合う デザイナー 固体と液体  ふたつのワールド

 

 

感想などいただけると泣いて喜びます。

 

それでは、また。

遠雷

   崖の上から見る景色は、いつも以上に境目がなかった。空には雲一つ無く、海には船一つなく、ただ海が太陽の光を反射し、地平線が広がってるだけだった。風は少し強くて、頭に撒いたタオルをかすかになびかせていたが、肌寒さを感じる程ではなかった。とはいえ、陽射しから察するに、まもなく秋が終わり冬がやってくるのだろう。

   ノエルはいつものように、ケースからアルトサックスを取り出した。

  

 

   あれだけ苦戦したマウスピースの咥え方も、最初は訳がわからなった運指も、今では何も意識しないでできるようになるのだから、人間の学習能力はすごいな、とノエルは吹きなから思った。その一方で、肺活量がなかなか上がらないことに苛立ちも覚えていた。今日もいいペースだったのに、サビを終えてからの間奏からパワーが無くなっていったのが自分でもわかった。

  「いい曲じゃない」

   ノエルが曲を吹き終えて一息つくと、後ろから声をかけられた。振り返ると、画材道具一式を持った黒服の女性が立っていた。ジンジャーだ。

  「お世辞とか言わなくていいよ」

  ノエルはマウスピースを拭きながら声をかけてきた女性に返した。

  「お世辞じゃないわよ。いい曲。演奏に力が足りなかっただけ」

  ノエルは反射的にジンジャーを睨みつけた。しかしそれは、ジンジャーの指摘が正しいことを認めていることを物語っていた。ジンジャーはノエルが睨みつけるのも意に介せず、イーゼルを組み立ててキャンバスを置いた。

  「…‥ここにジンジャーが来るのって、随分久しぶりな気がするけど」

   ノエルは何も言い返せない気まずさを少し和らげようと ーもっとも本人にその自覚はあまりなかったがー ジンジャーに尋ねた。

  「うん、すごく久しぶり。ずっと絵を教えていたし」

  「教えてた?」

   「あ…‥」

  しまった、と言う表情をしてジンジャーは口を噤んだ。

 

 

  一週間ほど前の話。

  ジンジャーのアトリエ兼自宅に、青いベレー帽を被った可愛らしい女性が唐突にやってきた。

  「あの、私、ファンなんです!お願いします、弟子にしてくれませんか!?」

    顔立ちと声から少し幼い印象を受けたが、実際には自分と同じぐらいだろう。そんな想像をしていたジンジャーは、想像だにしなかった申し出に面食らった。

  「……え、ええと、名前は?」

  「ヘイゼルです!」

  ジンジャーは尋ねたが、実のところ、名前を知りたいわけではなかった。弟子入りさせて欲しいという申し出があまりに唐突で、どうしていいか分からなかったというのが正直なところだ。だが、ヘイゼルと名乗ったその女性は、どういうわけか名前を聞いたことを弟子入りの承諾の意ととってしまったらしい。

  「ジンジャーさん、ありがとうございます!!!!!」

  「え、ええっ!?ええと、あたし絵を教えるとかやったこと無いし全然うまくなる保証とかないわよ…‥」

  「大丈夫です!!がんばります!!よろしくお願いします!!」

  「よ、よろしく……」

   あまりにキラキラした満面の笑みで握手を求めるヘイゼルに、ジンジャーは応じるしかなかった。

 

 

   陽が落ちてきた。しかしノエルは、最後まで息が続かないという課題をクリアできないどころか、回数を重ねれば重ねるほど音が荒れていく気がして険しい表情をしていた。

  「…‥ねえ。何か今日いつも以上にイライラしてない?」

  そんなノエルの様子を見兼ねたジンジャーが、ノエルに声をかけた。 

   「『いつも』以上?」

   ノエルはジンジャーの言葉に虚を突かれた表情をした。

   「え、気付いてないの?」

   「気付いてないって……」

   「少なくとも」

  ノエルが自覚していないことをわかったジンジャーは、ゆっくりとした口調でノエルに話した。

  「そのアルトサックスを吹いている時は、いつもより怒っているような感情が出てる。フルートの時はそんな感情は出ていない。なぜかはわからないけど」

 

 

  ノエルの兄、ルーサーはこのアルトサックスをよく吹いていた。ルーサーのサックスは、時には力強く躍動感が溢れて、時には静かで切なさを覚えるようなサックスだった。ノエルはそんなルーサーの演奏が好きだった。自分のフルートは優しくていい音色だとルーサーは褒めてくれたが、それよりもルーサーの、アルトサックスの力強い音色はノエルの憧れだった。

  そのルーサーはこの村にもう居ない。

  ルーサーは「船乗りになって海を渡る」という言葉とアルトサックスをだけを残して海を渡っていった。  

  今もルーサーは、この崖から見える海の何処かを勝手に航海しているのだろう。何時帰ってくるかも分からない。そもそも、もう帰ってこない可能性だって、今生きていない可能性だってある。ルーサーの事を考えていてもぐるぐる思考が回るだけで何も結論に辿りつけない。

  だから、ノエルはルーサーのことを考えるのをやめることにした。

 

 

  ジンジャーの指摘にノエルは言葉を返すことができなかった。ジンジャーの指摘は正確だった。ただ一点、「なぜかはわからない」という点を除いて。だからこそ、ジンジャーの指摘をノエルは黙って飲み込むしかなかった。

  

  「……ジンジャーは、その弟子のヘイゼルに絵の描き方を教えてるの?」

  ノエルはアルトサックスを片付けながら、ジンジャーに尋ねた。

  「……あんまり」

  確かにジンジャーは積極的に絵を教えることはしなかった。しかし、ヘイゼルが弟子入りする時に、「絵を教えられる保証はない」とヘイゼルに明言し、その上でヘイゼルは弟子入りの意志を変えなかったので、ジンジャー自身に落ち度があるわけではない。けれど、最初こそどのように対象をデッサンするのかなど、ジンジャーなりに師匠らしくヘイゼルにレクチャーをしていたが、すぐに教えられるネタは尽きてしまった。

  「それ、ただの付き人なんじゃないの?」

   「付き人って…‥」

  しかし、ノエルの言葉にジンジャーは何も言い返せなかった。確かに消耗品が足りなくなりそうな時はすぐに補充品を調達してくれたし、道具が傷んできた時には新製品のカタログを用意した上で、的確な助言までしてくれた。ヘイゼルのアドバイスで新しく購入した筆のおかげで、今まで苦労していた色塗りが嘘のように楽に塗れた時には、信じられないと思った。

   だからこそ、なぜヘイゼルが自分に弟子入りさせて欲しいと言ってきたのか、ジンジャーにはわからなかった。

  「あれだけわかってるんだったら、わざわざあたしのところに弟子入りなんかしなくたって描けると思うんだけど…‥あれ?」

   「どうしたの?」

   何とはなしにノエル呟いたところで、ジンジャーは気付いた。

   「あたしヘイゼルの描いた絵、見たことない……」

 

 

  「ヘイゼル、描いた絵見せて!」

   アトリエに戻るやいなや、ジンジャーは配達された絵の具のチューブを整理していたヘイゼルに呼びかけた。

「え、ええっ!?」

  突然の呼びかけにヘイゼルはびっくりし、絵の具チューブを落としそうになった。 

  「でもでも上手く描け……」 

  「いいの!とにかく描いて!!」

  ジンジャーは、自分の予想に確信を持った。 理由はわからないけど、ヘイゼルは絵を描くのを怖がっている。

 

 

  「ヘイゼルは、その絵を見てどう思う?」

  「どうって…‥」

  ヘイゼルは言い淀んだ。 ジンジャーに絵を描くように言われ、何も描きたいものがなかったので仕方なく今夜の料理に使おうと思っていたキャベツの絵。上手く描けたとも、だからといって下手くそとも思えなかった。要するに、感想は無かった。

「感想は特に無し?」 

「え、ええっと…‥ないです…‥」

  仕方なくヘイゼルは思った通りのことを正直に述べた。

 「そうよね。いきなり『絵を描け!』って言われて描いたんだからあるわけないわね」

「ジンジャーさん?」 

  感想が無いことを肯定されるとは思わなかったヘイゼルは、少し驚いた様子でジンジャーを見た。

  「大事なことを教え忘れていたから、よく聞いてね。嬉しい、悲しい、怒ってる。なんでもいいんだけど、そう思ったらその気持ちは絶対覚えてて」

  「気持ちを…‥?」

  「そう。……何かを表そうと思ったら、気持ちは避けて通れない。例えば、怒っている気持ちと悲しい気持ち。どっちも味わいたくない嫌な気持ちかもしれないけど、そんな気持ちが助けてくれることがある。絵を描くときや、詩を書くとき、あとは音楽を作って演奏する時もね」

  「ジンジャーさんも、そんな気持ちを持って描いているんですか…‥?」

  「もちろん、その時味わった時のような強い感情はいつまでも持っていられないけどね。つらいし。でも、中にはそんな強い感情をいつまでも持ち続けている人がいるの。そんな人は、いろんな人の気持ちを動かすだけのパワーを持っているんだけど、辛い気持ちに苦しんでる。苦しみながら生み出していく」

  いつになく真剣なジンジャーの言葉を、ヘイゼルは黙って聴いていた。

  「だからね」

  ジンジャーは続けた。

  「ファンを作るの」

  「ファン?」

  「そう。ファンは、自分の気持ちを聴いてくれる人達だと思って。だからその人達を大事にしないといけない」

  ジンジャーはアトリエの奥にある、少しすすのかかった絵を持ってきた。

  「そして、そのファンに最初に自分がなるの」

 

 

  雲一つない青空とどこまでも続いていく地平線。思ったより風が強く寒いため、絵を描く意志は折れたけど、この景色はとても綺麗だとヘイゼルは思った。寒さを堪えながら景色を眺めていると、後ろから声をかけられた。ヘイゼルが振り返ると、楽器のケースを右手に持ち頭に黄色い布をなびかせている男の人が居た。

  「そこ、いいかな?」

  「え……?」

  「そこで楽器の練習をしたいんだけど」

  「え、あ、はいすみません!」

   ヘイゼルは慌てた様子で下がりノエルに場所を譲った。

 

 

  あと一歩が届かなかった。ようやく息は最後まで続くようになった。でも、まだ息が続くだけだとノエルは思った。もう少し、あと少し。でもまだ、届かない。

  「あの、すごいですね!!」

  演奏を聴いていたヘイゼルが、ノエルに声をかけた。

  「すごい?」

  「すごく気持ちがこもってると思いました!こんなに気持ちが伝わってくる演奏ってすごいです!」

  「気持ちが……?」

  「すごく何か待ち遠しい感じがして、でも寂しい感じとかもあって、すごいです!」

  「…‥ありがとう」

   別にそんなこと感じていないけど、とノエルは思ったが、すごいを多用するヘイゼルの言葉に悪い気はしなかった。

  「いつもここで演奏しているんですか?」

  「大体はね。天気が悪かったらさすがにやらないけど」

  「じゃあここに来れば……あ、お名前教えてくれませんか?」

 「ノエル。君は?」

 「ヘイゼルです!ここに来ればノエルさんの曲が聴けるんですね!」

  ああ、彼女がヘイゼルか。確かに青のベレー帽をかぶっていて画材道具も抱えている。ノエルは納得した。

   「ヘイゼルは絵を描くの?」

   「あ、はい、この間まで弟子入りしていたんですけど、クビになっちゃって」

   「クビ!?」

   ノエルは驚いてヘイゼルを見た。あまりにノエルが大きなリアクションを取るのでヘイゼルもつられて驚いた。

   「あ、別に何かしたわけじゃないですよ、本当に。ただ、ジ…‥先生が色んな所を見てこいって」

  「色んな所?」

  「そうしないと、私がいつまでたっても先生のところにいるから、そういうのは良くないって……」

  「ふうん……で、どういうところへ行くつもりなの?」

  「こことか!」

  「え、ここ?」

   ノエルは首を傾げて尋ねた。

  「ここ、すごく見晴らしがいいじゃないですか!それにノエルさんの曲も聴けますし!」

  「自分の好きな場所を探すってこと?」

  「はい!私、嬉しいことがあったら、絵を描きたくなるんです!それがわかったから、そういうところがありそうな場所を探しているんです!」

  ヘイゼルは嬉しそうにノエルに話した。確かに、もう冬になろうとしているのに、風の強いこの場所で薄着なのにも関わらず離れようとする気配がない。ヘイゼルがここを気に入っているというのは本当なのだろう。

  ふと、ノエルは思った。

  「さっき嬉しいことがあったら絵を描きたくなるって言ってたけど、どういう意味?」

  「えっと。気持ちが大事なんです」

  「気持ち?」

  疑問に思うノエルにヘイゼルは説明を始めた。

  「嬉しい気持ちとか、悲しい気持ちとか、怒ったりする気持ちとか、そういうのを大事にしないといけないんです。先生がそう言ってたんですけど、私もそう思います。私は嬉しいことがあったら、それをみんなに『嬉しいことがあったー!』って伝えたいんですけど、そういう時、絵を描きたくなるんです」

  画材道具をカバンから取り出しながらヘイゼルは語り続けた。

  「悲しい気持ちとか、怒ったりする気持ちとか、そういう気持ちになった時に絵を描きたくなることは、私はよくわからないんですけど、でも先生は、悲しい気持ちを大事にして描いているって言っててすごいなあって」

  「悲しい気持ち……」

  「それから中には、すごく怒った気持ちを抱えている人もいて」

   怒った気持ち、 という言葉にノエルは少し眉を動かした。

  「そんな人はいろんな人の気持ちを動かすパワーがあって、でもその人は苦しみながら生み出しているって」

  「君もそう思う?」 

  ノエルが問いかけた。

  「私は……そんな人に会いたいです。そんなに苦しんでいるのに、人の心を動かす作品を作れるなんて、すごく立派な人だと思います。……先生がそうでしたから」 

 

 

  いつのまにか、東側に黒い雲が集まってきていた。

  「……これ、雪が降るかもね」

  「雪降るんですか!?」 

  「何でそんなに嬉しそうなの」

   東の黒い雲を嬉しそうに見つめるヘイゼルにノエルは尋ねた。

  「楽しいじゃないですか!雪ダルマとか、ソリとか!」 

  雪が降ると決まったわけでもないのにはしゃぐヘイゼルに少し呆れた様子で、ノエルはアルトサックスをケースに仕舞った。

  「帰るんですか?」

  「天気が悪くなりそうだからね」

  「あ、じゃあ食堂に来ませんか?」

  「食堂?」

  「最近、住み込みで食堂でアルバイトしているんです。美味しいですよ、お好み焼きとか、きんぴらゴボウとか、エスカロップとか!」

  ノエルはヘイゼルの紹介してくれた料理がどんな料理か想像がつかなかったが、ちょうど空腹を覚えていたので、ヘイゼルの申し出には少し心が動いた。

  「…‥わかった。行くよ。で、お願いがあるんだけど」

  「はい、何ですか?」

  「ヘイゼルの絵、見せてくれない?」

   ジンジャーの弟子だった人が、嬉しい時に描く絵ってどんな絵なんだろう。ノエルはそんな好奇心から聞いてみた。

  「…‥は、はい、ありがとうございます!!!」

    ヘイゼルは顔を紅潮させて、ノエルに感謝の言葉を伝えた。

  「え、え、何でそんなに赤くなるの…」

  「だって、ファンになってくれるかもしれないと思ったら嬉しくて……」

  「ファン……?」

   ノエルはヘイゼルの絵をちょっとした好奇心で見たいと思っただけだ。実物を見たことが無いので、ファンになるかどうかは全然わからない。だが、あまりに嬉しそうなヘイゼルに対して、冷静に事実を伝えることが今のノエルにはできなかった。

  「……まあ、ファンが増えるのはいいことなんじゃないかな。自分の作品を見てもらえるのは励みにもなるし」

  「本当ですか!?じゃあ、私もノエルさんの曲これからも聴きます!」

  「えっ……」

   一般論で話を誤魔化そうとしたノエルに対してヘイゼルが告げた言葉に、ノエルは完全に虚を突かれた。

   「私、ノエルさんの曲のファンです!」

  全力で告げるヘイゼルに、ノエルは「お、おう」と顔で表現した。どんな顔をすればよいのかわからなかった。

 

 

  「あ!」

  「雪だね」

   食堂へ向かう道中、ノエルの予想通り雪が降ってきた。

  「これ積もるんじゃないですか!?」

   「積もりそうだね」

    はしゃぐヘイゼルにノエルは冷静に答えた。例年より降るペースが早いし、水っぽさが少ない。このペースで降れば明日の朝には雪だるまが作れるくらいにはなるだろう。でも、それをヘイゼルが知るのは明日の朝でいいと思い、ノエルは何も言わなかった。

  「お腹が空いてきたね」

  「私もです。お好み焼きもきんぴらゴボウもエスカロップも、すごく美味しいんですよ!楽しみにしててください!」

  「そんなに食べられないよ」

  「大丈夫です。ファンになりますから、食べられます!」

   ヘイゼルの言っていることは無茶苦茶だったが、ノエルが空腹で料理を楽しみにしていたのは事実だった。

  (ファン、か……)

  とにかくルーサーを負かしたい一心だけで演奏していたから、誰かのファンになる、ということを全然考えてなかったな、とノエルは思った。ルーサーのことを考えないようにしていたけど、結局ルーサー以外のことは考えてなかったのと同じだった。

 

 

  ファンになれるといいな。

  ノエルはヘイゼルと食堂の門を叩いた。

幻のパンと長いスプーン 【パンジーさん100st記念小説】

 パンジーさん100ステージ記念として寄稿した「幻のパンと長いスプーン」を、一部改訂して投稿します。改めて、パンジーさん100stおめでとうございました。今後のご活躍を楽しみにしています。

 また、作中のヒルダのセリフは北海道弁ですが、こちらの監修はまどかさん (@madoka0808) にお願いいたしました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 

【拝啓 パンジー様

  6月に入ったのに、もう梅雨明けが待ち遠しいと思っています。エスターです。
  先日はお見送りの会を開いてくれて本当にありがとう! すごく嬉しかったです! こっちに来たらステファンと会えると思ったんだけど、ステファンはこっちの修道長の付き添いでやっぱりしばらくいないらしいの……残念。
  あっ、御手紙したのは、面白そうな本を見つけたからなの。この間古本屋さんで見つけた本で、見たことのないパンが一杯! ただ、レシピは昔の言葉っぽくて、よくわからなかったんだけど……(汗)。パンジーはこんなパン見たことある?参考になるかな、と思って送るね。まあ本当は、このパン美味しそうだから作って欲しいなー、なんて思って(でも書いているうちに、本当にパンジーのパンが食べたくなっちゃったよ―)。
まだ蒸し暑い日が続きそうだし、デイジーの心配ばっかりしないで、パンジーも身体には気を付けてね。また手紙を書きます。それでは、また。

                                                                                                                                  敬具 エスター】

  かつて村の中央広場の近くに酒場があった。それなりに繁盛していたのだが、主人が都合で村を離れてしまい酒場は閉店してしまった。酒場が無くなり村の人々が寂しい思いをしていたある日、村長のもとに食堂を作らせて欲しいと申し出があった。申し出たのは、北国から来たという訛の強い女性、ヒルダ。ちょうど酒場が無くなったタイミングで、代わりになればと考えた村長はヒルダの申し出を受けた。
  ヒルダの作る「エスカロップ」や「クリームシチュー」といった独自の手料理は、珍しがられつつもその味や豊かなバリエーションから、次第に人気を博し根付いていった。ヒルダの訛は、珍しがられつつも安心できると評判になり、酒を飲みながらヒルダと話すのを楽しみにする村人が増えていった。
ヒルダには食堂の主人に必要な才覚があった。
  かくして、食堂【エスカロップ】は、村人たちの胃袋を満たす憩いの場となったのである。


「……いいやー、見るの初めてだ、こんなパン」
「そっか。ありがと」
  エスカロップのカウンター席で夕飯のクリームシチューを食べ終えたパンジーは、エスターから届いた本をヒルダに見せていた。
「しかし、ずいぶん古い本だな。どこで手に入れたんだこりゃ?」
「エスターが送ってきてくれたんだよ」
  そのパンジーの隣でキンバリーと食事をしていたルーサーが本を覗きこんだ。その古本は様々なパンの絵が表示に描かれていることから想像できる通り、パンのレシピ集だった。パンジーが知らないパンも少なくなく、早速作ってみよう! と意気込んでみたものの、レシピが書かれている言葉がパンジーには読めなかった。若干今の時代とは古い言葉かつ別の地方の言語だろうと見当はつくものの、正確な記述がわからないため簡単には作れそうになかった。
「ルーサーとキンバリーは、こういうパン見たこと無い?」
「知らねーです。でもこれ、なんだかサクサクしててすげー美味しそうです」
「俺も見たことねえけど、本当に美味そうだな」
「そだね、フルーツさ乗っかってるの珍しいし、パンっちゅうかお菓子みたいだべ」
「そう思ってデイジーに聞いたんだけどね。デイジーも知らなかった」
  パンジー達が見たことの無いパンでも、この村の外から来たヒルダ達なら知ってるかもしれない。そんなパンジーの一縷の望みは残念ながら叶わなかった。情報収集を諦めてパンジーが三人に礼を述べて会計をしようとした時、エスカロップに客が来た。その客を見てヒルダが驚きの声を上げた。
「やー、デニちゃんしばらくぶりだね。なしたのさ!」
  その声に残りの三人が客の方を向くと、ルーサーとキンバリーも驚きの声を上げた。
「え、デニスさん……」
「領主様が、何でこんなところに……」
「こったらとこって何さ」
  ヒルダがキンバリーに膨れたが、パンジーは1人状況がわからずきょとんとしていた。

 

「デニちゃんさ、デニス地方の三代目領主様なんだわ」
  ヒルダがパンジーに説明した。
「所用がございましてこちらに滞在しております。ところでヒルダさん、デニちゃんというのは……」
「ああごめんごめん、昔の癖さまだ抜けねぇんだわ」
  困った顔で勘弁してほしいというデニスに、ヒルダが笑いながら訂正した。
「所用ってなんですかー?」
「お前そういうこと聞くなよ、人がぼかしてるんだから」
  デニスに尋ねるキンバリーをルーサーが注意した。とはいえ、内心ルーサーも内容を知りたがっていたので形だけの注意ではあった。
「あら、いよいよプロポーズするのかい?」
遠回しに聞こうとしたルーサーとキンバリーの思惑をよそに、ド直球に聞いたヒルダの言葉にその場の全員が噴いた。
「えええ!!!」
「ぷ、プロポーズするんですか!?」
「マジかよ!!」
「いやいやいやいやいや、べべべ別にそんなことをしに来たわけでは!!」
  驚くパンジー達にデニスは必死で弁明した。しかしまだ酒を飲んでもいないのに傍から見ても分かるくらいに紅潮した顔を見れば、図星であることは明らかであった。
「本当に違うんですよ、本当に……!」
  パンジー達に向って否定するデニスだったが、パンジーの側に置いてあった本を見て動きが止まった。少し思案した後、デニスはパンジーに尋ねた。
「……すみません、その本は?」
「え、これですか?」
  パンジーはデニスに表紙を見せた。瞬間、デニスはパンジーに駆け寄り尋ねた。
「その本、見せてくれませんか!?」


「デニちゃ……デニスさんのおじいさんさ書いた本なのかい?」
「はい、間違いなく私の祖父であるデニス1世が書いた本です。パンジーさん、どうしてこの本をあなたが?」
  デニスはパンジーから本を受け取ると、1ページ1ページを丁寧にめくり、感慨深げに目を通しながら尋ねた。
「参考になったらって、友達が送ってくれた。古本屋で見つけたって言ってたけど」
「そうでしたか……驚きました。まさかこんな形で見つけられるとは」
「この本に乗っているパン、デニスさんのおじいさんが作ったってことですか? すげーうまそうです」
「はい。我がデニス家は代々料理に関して造詣を持ち、創作を絶やさぬべしと家訓にありますので。祖父はパンに造詣が深くレシピを書籍としていたらしいのですが、自宅にも書籍の断片しか無くレシピが残っていなかったんです」
「デニスさんもパン沢山焼いてるですか?」
「いえ、私はこんにゃくの方が好きなのでこんにゃく、はるさめを中心とした料理を作っております。通常のこんにゃくやはるさめも良いのですが、ほかの味と組み合わせることより、こんにゃくとはるさめのポテンシャルを引き出すことができることを発見したのです。例えばカレー煮込みにカルボナリ風などは、はるさめと組み合わせると……。」
「……ええとデニスさん、このパン知ってる?」
  デニスの話が長くなりそうなのを察したパンジーが、本の表紙に描かれていたパンを指さしてデニスに尋ねた。パンジーが一目見て作りたいと思ったものの、作り方の詳細がわからずヒルダ達に聞いていたパンだった。
「これは……ああ、デニッシュですね」
  ページをめくり、パンジーが指さしたパンが描かれているページを開いてデニスが答えた。
「祖父が一番最初に作ったと言われているパンです。デニス地方で生まれたパンだから、デニッシュ、と」
「じゃあ、このパンの作り方もわかりますか? レシピが読めなくて……」
「ああ、確かにこれは読めないでしょうね。単位が古いし、言葉も方言がかなり混じっています」
  デニスが苦笑しながら答えた。
「そうだったのか……」
  肩の力が抜けたパンジーがため息をついた。
「ですが解読すればレシピは再現できると思いますよ。パンジーさんはパンを良く焼いているのですか?」
「焼くも何も、パンちゃんさ村一番のパン屋さんなんだわ。うちのパンもぜーんぶパンちゃんとっから仕入れてるも」
  ヒルダの返答を聞くやいなや、
「パンジーさん!」
  パンジーの両手を握りしめてデニスが迫った。
「な、何ですか?」
  驚き息を飲むパンジーにデニスが言った。
「お願いします。デニッシュを作ってくれませんか!? できることがあったらなんでもしますから!!」

 


  デニスの祖父であるデニス1世がデニッシュのレシピを発行してから半年後、戦争が始まった。当初は中立を保っていたデニス一世だったが、拡大していく戦火にデニス地方も無縁ではいられず参戦せざるを得なくなってしまった。結果としてデニス地方もダメージを負い、デニス1世が発行したレシピは戦火で失われ、デニッシュを作っていたパン職人も亡くなってしまった。そのため、デニスにとってデニッシュは話に聞くことはあるけど実物を見たことがない「幻のパン」として存在し続けた。
  その幻のパンのレシピが、目の前にパン職人と共に在る。しかも聞けばこの村一番のパン職人。デニスはなんとしても、祖父の残したパンがどのようなものだったか知りたかった。パンジーにとっても、デニスの申し出は未知のパンを作るという、パン職人としての血が騒ぐ願ってもない申し出だった。
「喜んで!!」


  こうして翌日からパンジー達は早速デニッシュを作り始めた。「達」というのは、パンジー以外からもデニッシュ作りに協力したいと申し出があったからだ。
「パンとお菓子が合わさってるのって、絶対美味しいよ! 私も手伝う!」
「私もこれ、食べてみたいべさ!」
  「幻のパン」に惹かれたのはパン職人のパンジーだけではなく、菓子職人のデイジー、食堂の女主人ヒルダも同じだった。デニッシュに乗せるフルーツはデイジーが用意し、細かい作業や下準備はヒルダが手伝った。
「店番ぐらいなら俺とキンバリーでやるぜ。報酬はデニッシュな」
「すげー楽しみです」
  そしてデニッシュに釣られたルーサーとキンバリーが、パン屋の店番を手伝ってくれたおかげで、パンジー達はデニッシュの試作に集中できた。
「……皆さん、本当にありがとうございます。デイジーさん、フルーツは何でも合うと思うのですが、チェリーを作ってくれませんか? ちょうどチェリーも手に入りましたので」
  デニスはレシピを解読しつつ、デニッシュづくりに必要な材料、機材を調達していった。
  デニッシュというものを一度食べてみたいという六人の願いを乗せて、パンジーはレシピと格闘しながらデニッシュを作り続けた。

「出来立てのチェリーデニッシュをキャシーさんに食べさせたいって、やっぱりデニスさんはキャシーさんの事が好きなんですね」
  デニスの話を聞いたデイジーが、微笑みながらデニスに尋ねた。
「やっぱりって何ですか、私はキャシーさんがチェリーが好きだというから、好意とかそういうのではなく……」
「じゃあデニスさんはキャシーさんとチューしたくねーですか?」
「え!? いや、それはそのそのなんというか」
「おいキンバリー、直球過ぎるだろ」
  キンバリーをルーサーが注意するが、もちろんルーサーが内心思っていることは
(いいぞキンバリー、もっとやれ)
  である。
  そんな4人をよそに、パンジーとヒルダとは渋い顔で試作品のデニッシュを睨んでいた。
「サクサク感さないっしょ」
「うん、そのせいでバターの油が余計にしつこくなってる」
  パンジーの言う通り、焼きあがったデニッシュは味こそ悪くないものの、バターの油がべっとりと生地に染みこんでしまっていた。噛むと油を噛んだかのようなしつこさが口の中に広がり、一口食べるだけで胸焼けがしそうだった。
「ねぇねぇこれさ、バターの分量さほんとに合ってるのかい?」
  首を傾げてヒルダがデニスに尋ねた。
「合ってます。私も多いと思いますが、レシピ通りだとこの分量です」
「クッキー作る時だったらこれくらいバター使うけど、パンでこんなに使うのかなあ?」
「なしてこったらバターばのっつり使うんだべか? パンてほどんと毎日食べるべさ。こったらバターば使ったら、太るんでないかい?」
「推測ですが、寒いから脂肪分の多い食べ物が好まれたんじゃないかと……」
「寒い?」
「あ、パンジーさんは存じ上げないかもしれませんね。デニス地方は山に囲まれた雪国で、冬はここよりずっと寒いんです。ですから体を温めるエネルギー源として、バターは重宝するのですよ」
「ここよりずっと寒い……」
「あっ!!」
  パンジーとデイジーが同時に叫んだ。
「暖かすぎない!?」
「そうだ! 寒い所でやらないといけなかったんだ!」

 

  まだ日も出ていない、深夜と早朝の境目とも言うべき時間。パン工房から少し離れた狭い一室にパンジーとデイジーとヒルダとデニスはいた。
「ちょっと寒いかも……。お姉ちゃん、薄着で大丈夫?」
「全然平気。捏ねてるうちに体も温まってくるだろうさ」
  部屋ある巨大な氷が室温を下げていた。普通なら手に入らない巨大な氷が手に入ったのはデニスの資金力のおかげだった。とはいえ、最近の気温のことを考えると氷はすぐに溶けてしまうだろう。手早く作らないといけないことに変わりはなかった。
  生地もバターも準備して伸ばしてある。後は温度が上がらないうちに生地を整形し焼く。いかに生地やバターに熱を伝えず、生地の整形を手早く行うかが勝負だ。
「デイジー、ヒルダ、始めるよ」

  とにかく生地やバターに熱を伝えないこと。そのためには自分の手の温度も下げる必要があると考えたパンジーは、桶に貼った氷水に両手を漬けた。5秒、10秒、15秒、20秒。次第に手に鈍い痛みを覚え、やがて手の感覚が鈍くなっていく。指が自分の意志で細かく動かせるギリギリのタイミングで桶から手を引き上げた。
  ここからは時間との勝負だ、とパンジーは思った。
  正方形に整えたバターを伸ばした生地の上に重ね、生地を四方から折りたたみ正方形の形を保つように慎重に織り込む。形ができたら、次は伸ばし棒で慎重に伸ばしていく。薄くなったら裏返しにして、デイジーが打ち粉をまぶしてから同様に伸ばしていく。打ち粉を刷毛で払い三つ折にし、もう一度伸ばす。伸ばし終わった生地をバットに入れ、冷暗所に入れる。

 

「これで1セットでだね」
  パンジーが生地を冷暗所に入れるのを見てデイジーが言った。
「よし、しばらく休憩かな」
「パンちゃん、手ぇ大丈夫?」
「これぐらい全然大丈夫だよ」
  パンジーの手を擦りながら心配するヒルダに、パンジーは気丈に言った。
「パンジーさん……」
「デニスさん、大丈夫です」
「……ありがとうございます」
「お礼はデニッシュがちゃんとできてからです」


  寝かせた生地をもう一度伸ばし、先程と同じように伸ばして再び冷暗所に入れ、しばらく時間を置いて生地を取り出した。 デニッシュ大に生地を切り、切れ目を入れて折りデニッシュの形を作り、その上にチェリーの甘煮を乗せたら濡れた布を被せ二次発酵を行う。作業自体はそれほど難しくはなかったが、かかる時間にパンジーは珍しくじれったさを覚えた。日常、パンを作っていてパンを作る工程に慣れているはずのパンジーですらもどかしさを覚えているのだから、他の三人はもっと落ち着きが無くなっていた。といってもできることもないので、4人は首を長くして待つことしかできなかった。
  一時間が経ち、布を取り上げた。
  生地はきちんと発酵している。バターは溶け出していない。
「……いける」
  生地に仕上げの卵を塗った。いよいよパンを焼くところまできた。パンジーはパン工房に戻りオーブンの準備を始めた。
「お姉ちゃん、生地ここに置くよ!」
  生地の入ったバットを運んできたデイジー達が机にバットを置いた。パンジーはプレートに生地を乗せ、オーブンにプレートを入れた。210度程度の温度で15分間。焼き加減は最後の難問で、温度が少し違うだけで、時間が少し違うだけでパンが台無しになってしまう。
「ここまで来たんだ。お願いだから拗ねないでくれよ……!」
  15分間の最後の戦いだった。
  小麦の焼ける良い匂いが漂ってきても、生地がキツネ色に色付き始めても、パンジーは気を張りながら焼きあがる生地と温度計を見つめ続けた。

「3……2……1……ゼロ!!」
  デニスのカウントダウンゼロの合図と共に、パンジーはデニッシュを置いたプレートを窯から引き上げ、作業台の上に置いた。
「わー! わや美味しそうだべさー!」
「お姉ちゃん、早く食べようよ!」
「……ああ!!」


  プレートの上のデニッシュを皿に移し、4人はチェリーデニッシュを一口食べた。4人の表情は様々だった。
「これ、美味しいよ! お店で出そう!」
  満面の笑みを浮かべてパンジーに勧めるデイジー。
「うわ、ほんっとに美味しい! こったら生地ばサクサクするんだね! すごいべさ!」
  驚きの表情で一気にチェリーデニッシュを平らげるヒルダ。
「……!!」
  生地だけの感触を味わい、次いでチェリーと一緒に食べてからガッツポーズをするパンジー。
  そして、一口食べて言葉を失うデニス。

「……パンジーさん。本当に本当にありがとうございます。きっとこれです。間違いありません」
「うん、本当に美味しいよ、これ。……おじいさん、本当に腕のあるパン職人だったんだ」
「そうおっしゃっていただき、恐縮です。祖父の願いを叶えていただいて本当に嬉しく思います」
「おじいさんの願い?」
  デイジーに、デニスは本のあとがきを見せて説明した。
「祖父の願いは、このレシピを広めて1人でも多くの人がパンの美味しさを知ってもらうことでした。そして、『自分の作ったパンを、まだ見ぬ子孫に食べさせたい』と。祖父が自分で作ったパンを食べることは叶いませんでしたが、今、こうしてデニッシュを食べています。私は、間違いなく祖父の作ったパンを食べられているのです」
「デニちゃん……」
「本当にありがとうございます……」
  デニスはパンジーに礼を述べ、嗚咽をこらえながらチェリーデニッシュを一口一口味わっていった。


「あの、パンジーさん。折り入ってお願いがあるのですが」
  デニッシュを食べ終えたデニスが、パンジーに声をかけた。
「何ですかデニスさん?」
「勝手なお願いであることは重々承知しておりますが、この本を私に譲ってはいただけないでしょうか。お金ならおっしゃっていただいた通りお支払いしますので、どうか……」
「うん、いいよ」
「……へ?」
  デニスにとって、この本はただのパンのレシピ集に限らず祖父の形見でもあった。さらにデニス1世の残したレシピとしては現存するものも多くなく、希少価値も高かった。それだけに、資産に言葉、態度といったありとあらゆるを手段と使って、デニスは祖父のレシピ集を取り戻すつもりでいた。しかしパンジーの気のないあっさりとした返答にデニスは完全に肩透かしを食らっていた。
「デニスさんさ一番持ってるのいい人だもね」
「解読できないからレシピとしても私達使えないし、読める人のほうがいいよね」
「ええっと、その…」
「あ、デニスさんこれ再版してくれませんか? レシピ読めるようにしてくれるとすごく嬉しいんだけど」
「……わ、分かりました。では、再版を約束します。その際には献本させていただきます、パンジーさん」
「ありがとうね、楽しみにしてるよ。プロポーズもうまくいくといいね」
「は!?」
  本の譲渡に関する交渉で虚を突かれたデニスは、パンジーの突然の切り込みに返答ができなかった。
「あ、ええと……」
  純粋に自分を励まして微笑んでいるパンジー見ていると、デニスは必死でキャシーへの想いを否定し隠していることが、何かすごく後ろめたいことのように思えた。
「……はい」
  デニスは短く答えた。



  まだ日も昇らない夜明け前。パン工房の鍵を開けて中の匂いを嗅ぐように大きく息を吸い込んだ。まだパンは焼いていないが、パンの焼ける匂いがした。パンを焼いた時の匂いがこの工房に染みついたのだろう。この匂いは、パンジーがこれまてパンを焼いてきた記録であり記憶だった。
  パンジーは自宅から持参した本を机の上に置き、しおりを挟んだページを開いた。
「生地は折り目正しく丁寧に折ろう! 」
「いろんなフルーツを乗せても美味しそうだね~」
  開いたページには、二人の可愛らしい女性と、美味しそうな「チェリーデニッシュ」のイラストが描かれていた。
(さあて焼こう!!)
  今日もまたパンを焼く一日が始まった。


【拝復 エスター様
  初夏というには陽射しが強すぎて、正直参ってます。いかがお過ごしでしょうか。
  勉強は順調?この間は本ありがとう。びっくりしたんだけど、本の元の持ち主に会えた。】

「……80歳?」
「びっくりするでしょ?とても80に見えないでしょ?」
「何でバラすのハイラム」
「え、じゃあ娘のドリスさんって……
「お母さんが60歳の時の子供よ」
「そ、そうなんですね……はは……は……」
「このパン、キャシーおばさんが昔作ってくれたチェリーパイみたいで美味しいですよ、デニスさん」
「昔、チェリーパイをよく作っていたとお話していたのを覚えていてくださったのですね。ドリス、ハイラムが3時のおやつに喜んで食べてくれて。とても懐かしいです。本当にありがとうございます。……デニスさん、顔色がなんだか悪いようですけど大丈夫ですか?え、ちょっと、デニスさん、デニスさん大丈夫ですか!? すごい熱……ドリス氷水用意して、ハイラム、マドックを急いで呼んで!!」

 

【あのパン、デニッシュって言うんだって。悪戦苦闘したけど、デニッシュを作れた!! この本の著者がデニス地方の領主さんだったから、そこからついた名前らしいよ。まさかその元の本の持ち主がお孫さんとは思わなかったけどね。おじいさんのパンを食べたいって願いを叶えられたから自慢しとく(笑)。結局、あの本は持ち主に返したんだけど、再版して献本してくれるって言うから、それを楽しみにしている。レパートリーも増えたし良かったよ。本当にありがとう。デニスさんは作ったデニッシュを大事に抱えていったけど、多分好きな人に食べさせたいんだと思う。】


「ごめんください、デニッシュをいただけますか?」
テイラー、最近良く来るな。パンジーに惚れたか?」
「おやおや、あっさりバレてしまいましたね。はいそうです」
「な……」
「おいマジかよ、冗談のつもりだったのに」
「私は本気ですよ」
「じゃあチューしたいですか」
「キンバリー、チューからいい加減離れろ」
(いいぞキンバリー)
「はい、キスしたいです。好きですから」
(マジかよストレートに返しやがった)
「うるさいテイラー! チェリー、ラズベリーどっちだ!」
「どちらもです。パンジーさんの作るパンは美味しいですから、ふふ」

 

【まあそうだよね。自分の作った料理を好きな人に食べてもらうの、ほんとうに嬉しいもんだよ。だからきっと、ステファンもエスターに朝ご飯作れなくて寂しいんじゃないかな。僕の場合は、世話焼きの部分もあるのかなとちょっと思ってるけど(いや、こういうのは自分で言うことじゃないか……)。】


「ジャンヌいらっしゃい、今日は?」
「店のレーズンパンあるだけください。レーズンパン以外要りません」
「レーズンパンだけでいいの?珍しいね」
「今日はレーズンパンの日ですから」
「そ、そうなんだ……」
(なんでこんな殺気立っているんだろう……)
「団長にはレーズンパンでも食べさせておけばいいんです」
(喧嘩か……)

 

【時には喧嘩したりとか、仲違いしたりとかもあるんだけど、ぶつかるのも怖がっちゃいけないんだ。自分を大事にしなきゃいけないけど、他のヤツを大事にしたいんだったら、なおさら、ね。中には自分そっちのけで他のヤツのことを大事にしたいと思ってるようなヤツがいる。というより、この村には自分そっちのけで他の人の心配をするヤツが多い。】

 

「デニちゃんから本さ届いたのかい! 見せて見せて!」
「まさかこんなに早く届くとはね。びっくりだ。あ、ヒルダによろしくだって」
「やいや、たいしたポップになってるしょ。……この絵パンちゃんとデイちゃんでないかい?」
「やっぱりそうだよね、これ。このエプロン姿、お姉ちゃんそっくりだもん」
「あ、そいえばこないだテイラーさ嬉しそうにエプロン仕立ててたんだわ。パンちゃんさプレゼントするんでないかい?」
「はあ!? いいよ別に、このエプロンで! 自分の服もろくに手入れできない奴のエプロンなんて!」
「手入れ?」
「昨日店に来た時、左腕の袖の一番端のボタンが糸緩んで取れかかってたんだよ。仕立屋のくせに!」
「え、そうだったの?全然気付かなかった」
「へー、デイちゃん気付かねかったのにパンちゃんさ気付いたのかい。よーく見てるべさ」
「……い、いや別にジロジロ見てたわけじゃ!」
「『ああこれは失礼、紺屋の何とやらですね』だべ?」
「いいよ真似しなくて!!」

 

【そんなヤツらが互いに相手の心配をして大事にするから、結果的に皆が大事にされている。
みんな、本当にいい奴らだ。ついでに言うと、僕はエスターのことを、一番自分のことをそっちのけで他の人の心配をするヤツだと思ってる。
だから、いつでも帰っておいで。エスターがリクエストした、デニッシュを焼いて待ってるよ。
                                                                                                                             敬具 パンジー】

また苔が生えるその日まで(5) 魔女公演と人狼伝説

 お気に入りのお菓子を食べられるというのはとても幸せなことだ。

 フワフワと口の中で広がる楽しい食感のマシュマロ、サクッとした外側の皮と中のじゅわっとした風味のマカロン、甘い中にも芯のあるビターな風味が心地よいチョコレート。デイジーはそんなお菓子の華やかさと美味しさを愛していた。食べるのはもちろんのこと、自分でお菓子を作ることも大好きだった。好きが高じた結果、彼女は菓子屋を開いた。最初こそ菓子を作る以外の店は繁盛し、常連客もできた。

 その中に、毎日のように通ってくる男がいた。彼は足繁く菓子屋に通い、店の菓子を食べ絶賛した。それがデイジーに好意を伝えるためのアプローチだとわかったのは、彼と結婚した後だった。

 こうしてデイジーは、少し体重の増えた夫、ダンカンと共に今日も菓子屋を営んでいる。

 

 

 お気に入りの本を没頭して読めるというのはとても幸せなことだ。

 最後の一段落まで油断ができないミステリー、自分まで胸の高鳴りを抑えられなくなる恋愛小説、違う世界へと旅立たせてくれるファンタジー。貸本屋の娘として生まれ育ったシフォンにとって、読書は日常であり生きることに欠かせないものであった。父親の亡き後、貸本屋稼業を引き継いだシフォンは父親の大事にしていたカラーを引き継ぎつつ自分のカラーを出していき、貸本屋を繁盛させていった。

 ある日、とある恋愛小説についての推薦文が良いと褒められ礼を述べたところ、その相手は当の恋愛小説の作者だった。シフォンの素直な気持ちが当の作者に見られるとは思わず、シフォンは気恥ずかしくもあり嬉しくもあった。それが、夫のゴーシュとの出会いだった。

 こうしてシフォンは、締切に追われる夫、ゴーシュの執筆を手伝いつつ今日も貸本屋を営んでいる。

 

 

 お気に入りの本を読みながらお気に入りのお菓子を食べるというのは、とてもとても幸せなことに違いない。そう考えたデイジーとシフォンは意気投合した。結果、二店の近くにある広場に菓子を食べるためのオープンスペースができた。

 オープンスペースには人が集まり始め、人が集まるに従ってイベントをしたいという申し出が二人のところに来始めた。こうして、オープンスペースは不定期に様々なイベントが行われる、娯楽と憩いの場としての地位を確立したのである。

  オープンスペースに行けばとりあえず暇は潰せる。二度寝して正午過ぎに目を覚ましたキンバリーは、メイソンからクーポンをもらったことを思い出し、オープンスペースへ足を運んだ。

 

 

 「かくして、初日の議論と投票の結果、声を失うことになったのは天秤座の魔女、キャシー・ザ・ライブラでした。お互い涙を堪え切れず、アイヴィーと抱き合うキャシー。しかし、シレンティウムの魔法を浴びたキャシーは悲嘆することも激励することももはや叶わないのです。声を失ったキャシーは、自分の心が狭い狭い檻に閉じ込められたような感覚に襲われました。

 果たしてキャシーは狼の女王に乗っ取られた人狼だったのか!?まだ魔女たちの戦いは始まったばかりです。次回『エスターの涙の理由』、ご期待下さい!!!」

 
 
 オープンスペースの今日のイベントは、メイソン紙芝居のプレビュー公演「星降る歌と13人の魔女」。菓子屋で一定額以上の商品を購入した人は誰でも見られるという形式で始めた紙芝居は、メイソンの名人芸とも言える語り口と相まって人気を博していた。今回はゴーシュが脚本を手がけていることもあって、プレビュー公演がオープンスペースで行われていた。
 「キャシー…………!!」
 「どう考えても人狼じゃねえよ………」
 「メイソン、次回いつやるの!?」
 公演を観ていたドリス・キース・キンバリーは皆涙ぐんでいた。三人の様子を見る限りでは、多少の微修正を加えるだけで本公演を始められるくらいには仕上がっていると考えて良いだろう。
 「続きはあそこの人が書いてるから、せっついたらなにか出てくるかもよー」
 紙芝居の評判に満足しつつもどうやって仕上げていこうかと内心考えながら、メイソンは後ろで見守っていたゴーシュを指差した。

 「今まさに書いているところだからね、楽しみにしていてよ」

 「はい!」

 満面の笑みでゴーシュがキンバリーに答えるのを見て、シフォンはデイジーに尋ねた。

 「デイジー、ビターチョコレートって今日ある?」

 「ありますよ。ストロングチョコレートでよろしいですか?」

 「うん、一番強いのを頂戴」

 シフォンはデイジーに代金を支払い、ストロングチョコレートを買った。ああやってゴーシュが答えるのはどういう時は、シフォンは知っていた。まだ一文字も書いていない時である。スケジュールを考えると、今夜で執筆を始める必要が出てくるから、眠気覚ましの強いチョコレートが必要になる。

 「やっぱりさあ、シレンティウムって名前変えたほうが良くない?パルパッソとか」

 「絶対ダメです」

 ゴーシュはメイソンと打ち合わせを始めた。執筆に取りかかるのはもう少し後になるだろう。シフォンは頭の中で貸本屋を閉めた後の今日のスケジュールを組み立て始めた。

 

 「でもすごいよね。誰の声を失わせるかって、ああやって話し合いで決めるのって」

  「人狼伝説をあんな風にリメイクするなんて思わなかったよ。面白いなあ」

  「人狼伝説?元々そういう話があるの?」

 きょとんとするドリスにキースが説明した。

 「あるもなにも、この村に伝わる伝説だよ。満月の夜に人間を喰べた狼が、月光の魔力でその人物になりすまし、家族や友人を夜ごとひとりずつ餌食にしていく、忌むべき存在、それが人の狼と書いて人狼。」

 「そんな伝説があるんだ………」

 「人狼が紛れ込んでいることを知った村人たちは、村を救うために悲壮な決意を固める。さっきの魔女と同じように、毎日会議を開き話し合い、人狼と思わしき人物を」

 「処刑する」
 説明を聞いていたドリスとキンバリーの顔がだんだん強張っていった理由を、キースは理解した。背後から来た人物が自分の右肩に手を置き、自分のセリフの続きを取った。その声をキースはよく知っていた。

 「局長も公演を観にいらしていたとは知らなかったです」

 振り返らずに、キースはねじ巻き仕掛けの人形のように応答を返した。

 「観てねえよ。どこぞの記者が油売ってねえか調べてたらあっさり見つけちまっただけだ」

 左肩にも手が置かれ、キースはまたビクリとした。

 「これから全国公演するメイソン紙芝居のプレビュー公演となれば、取材しないわけには行かないですから」

 「俺はキースを文化部に配属した記憶はないけどな」

 「この村は小さいから、どこに配属されてもほぼ全部オールラウンドでできるようにしておけって言った記憶はありますよね、局長」

 「そう言った記憶はあるが、お前はあくまで社会部だから事件の調査や裏とりを最優先にしろって言った記憶もあるぞ」

  瞬間、キースが前のめりの姿勢になった。

  「あ、テメエ待て!!」

  局長と呼ばれた男、サミーはキースが逃げようとするのに気付き追いかけようとしたが、キースの方が早かった。キースはサミーを振り切り、北側にある村の教会方面へ全速力で走り去っていった。

 

  「まったく……ああ、話している最中、悪かったな」

  サミーは呆然と顛末を見ていたドリスとキンバリーに詫びた。

  「あ、いえ、大丈夫です………ええと、サミーさんも知ってるんですか?人狼伝説」

  少し気まずくなった間を紛らわせようと、キンバリーが尋ねた。

  「知ってる。……そうだな。少し待ってくれ。ダンカン、紅茶を一杯頼む」

 「はい、かしこまりました」

  サミーは紅茶を頼むと、キンバリーとドリスの近くに椅子を持って行き腰を掛けた。

  「この村に配属になった時、歴史だの地理だの、ひと通りのことは調べた。そこで知ったのが人狼伝説だ。さっきキースが言っていた通り、昼は疑わしい人物を議論で決めて処刑する。で、夜は人狼にまとめて襲われないように結界を張った別々の場所で眠る。人狼は結界を一晩で一度しか壊せないから、最悪、死ぬのは一人で済む」

  「結界?」

  「賢者様が施した秘術によって、人狼と戦うための場所が出てきて、そこなら結界を張ることができるんだとよ。で、議論を尽くして人狼を追い詰め村人は、人狼を全部倒して平和な村を取り戻しました、とさ」

  「そんなおとぎ話があるんだ…」

  「ですがこの村の門には賢者様の魔除けが飾ってありますから、全くのデタラメでもないかもしれませんね」
  サミーに紅茶を運んできたダンカンがドリスのつぶやきを受けた。
  「ダンカンも人狼伝説知ってるの?」
  「自警団の見回りで、クリスに教えてもらいました。北側の門に飾ってある賢者様の魔除けは、人狼などの魔物の侵入を防ぐためであると。人狼が本当にいるかどうかはわかりませんが、何か正体の分からない魔物がいるというのは、十分ありうる話かもしれませんね」
  キンバリーの質問に、近くの椅子に腰をかけながらダンカンが答えた。
  「そうなんだ………」
  キンバリーはマカロンを食べながらダンカンの話を聞いていた。もしかしたら、賢者様のお墓に何か関係があるのかもしれない。そう思いサミーとダンカンにもっと話を聞こうと思った時、カラスの鳴き声が聞こえてきた。
  「おっと、長居しちまったな。そろそろ俺は局に戻るよ。じゃあな」
  いつのまにか夕暮れになっていた。サミーはダンカンに紅茶代を渡すと、広場を後にした。
  「ありがとうございました。…ええと、そろそろ店を閉める時間ですので………」
  ダンカンは少し申し訳無さそうにキンバリーとドリスに告げた。
  「あ、ごめんなさい。ごちそうさまでした」
  「また明日ね!」
  ドリスとキンバリーはダンカンに礼を告げた。もっと話しを聞きたかったが、邪魔するのも悪かったので諦めた。
 
 
  「あ、ちょっと待ってキンバリー!」
  席を立ちドリスと共に家路につこうとするキンバリーを、デイジーが呼び止めた。
  「何ですか?」
  「さっき店の前で見つけたんだけど、これキャメロンのじゃない?見覚えある?」
  デイジーが差し出したのは銀色の万年筆だった。
  「…そうです!これキャメロンのです!」
  一目見て、キンバリーはすぐにキャメロンが使っているものだとわかった。父親の形見として、いつもキャメロンが利用している万年筆。
  「良かった。キャメロンに届けてくれる?」
  「はい、もちろんです!」
  キンバリーはデイジーに何度も礼を述べ、家路についた。

 

【続く】