文豪の書物置き場

文豪タウンが書いた創作物を置いています。本ブログ内の記事はすべてフィクションです。

短編小説の集い「のべらっくす」第25回参加作品 「あの人、病気だから」

短編小説の集いというイベントをやっていることを知りました。

novelcluster.hatenablog.jp

 

今回のお第は「病」で5000字以内、というレギュレーションとのこと。

というわけで参加させていただきます。

 

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あの人、病気だから

 

 「あの人、病気だから」

 襖をそっと開けて、ゴホゴホと咳き込む父親を心配して見つめる龍一に、真美は諭すように静かに告げた。病気なのだから、咳き込んで苦しむのは仕方のないことだ。それなのに、なぜお父さんは寝ないで机に向かっているのだろう。龍一にはわからなかった。

  今になって思えば、原稿の締め切りが近かったのだろうと想像はつく。だから、持病の喘息に耐えてでも書かざるを得なかったのだ、と。たとえその後、肺炎をこじらせて此の世を去ることになったとしても。

 

 

  「小笠原係長、RMSの東川さんです」

  「分かった、転送して」

  アシスタントの女の子には、密かに抱いた嫌な予感はおくびにも出さず、電話転送をお願いした。待っている最中に受信メールが来た。東川からのメールだった。

【ベルペラの荷離れ件数が不整合を起こしています】

 件名だけで言いたいことが分かる東川のメールは良いと龍一は思っていた。ただし、それはただの連絡事項の場合で、この後の電話のやりとりや対応策の協議を連想させるような件名は、あまりありがたくなかった。

 ごほごほと咳払いをしながら、龍一は転送された電話に出た。

 

 

「ベルペラ、アルザック、荷離れ件数全て一致しました」

「分かりました。東川さん、これでデータ復旧は全て完了した?」

「当日分は全て完了しました。…ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした」

「まあ、影響範囲が日次分だけで良かったですよ」

 ふう、と一息をついて龍一は時計を見た。23時30分。遅い時間だが、急がなくても終電には間に合う時間だった。東川からデータの件数が合わないこと、17時時点で原因が特定できないという報告を受けて、今日は帰れないことを龍一は覚悟していた。しかし、20時には原因が判明し、障害の影響範囲も調査が完了し、思ったよりも大きくないことが分かった。

「5時からの日次バッチは、立会どうするの?」

「中西が5時に出社しますので、中西にお願いしています」

「あれ、MMT移行テストの最中じゃなかった?」

「はいそうです。ただ、ウチの担当分のテストは7時に始まるので、それまでは待機と確認しをお願いしようかと」

 普段から顔色の悪い移行チームのサブリーダーの健康状態を思いながら、龍一は引き出しから薬入れを取り出し、オレンジの錠剤を口に入れ水で流し込んだ。

「…あれ?それ、アルザックですか?」

「ん?ああ、そうだよ」

「小笠原さん、喘息なんですか?」

「最近、咳喘息になっちゃってね。親が喘息でゴホゴホ言ってて苦しそうだなあって思っていたけど、まさかこの歳で自分がなるなんで思わなかったよ」

 軽く笑いながら、龍一は質問に答えた。東川は、納得したように龍一の机の上に置かれたのど飴と湿度計を見た。

「この会社にはずっとお世話になりそうですね」

「ホントだよ。会社を辞めても薬はやめられないからね」

 

 

  午前0時30分。締切日はあと1日、なんとか間に合いそうだ。龍一はそう思いながら、加湿器の給水タンクを取り出し、音を立てないように水を注いだ。本当は一刻も早く書き始めたいが、うるさくすると一秀と佐紀子が起きてしまい、面倒なことになる。はやる気持ちを抑えながら、龍一は給水タンクに水が貯まるのを待った。

 龍一は十分に水が溜まった給水タンクを慎重に運びながら、加湿器にセットしスイッチを入れた。「ピーッ」という音がやけに大きく聞こえ、一秀たちが起きてしまうのではとそわそわした。程なく、加湿器からしゅうしゅうという音とともに白い蒸気が上がってきた。

 準備は出来た。「33」というデジタル数字を見届け、龍一はPCの蓋を開けた。

 

【吉川はもう帰るのを諦めて、端末を起動し影響範囲の調査に乗り出した。レビューを午前2時にやるなんて正気の沙汰じゃない、ただのアリバイ工作で効果が得られるわけがない、それでしわ寄せはこういう末端に来るんだ。吉川はディスプレイに移る緑色のコマンド列を睨みつけながら、犯人探しを初めた。】

 

  喉の奥が苦しくなり、龍一は咳き込んだ。咳き込んだところで、マスクが無いことに気付き龍一は焦った。このままでは一秀が起きてしまう。咳が落ち着いたところで、龍一は慎重に目の前のコップの水を咳き込まないようにゆっくり飲んだ。

 

 

 「お父さん大丈夫?」

 龍一はびっくりして、声のした方向を見た。戦隊モノのパジャマを着た一秀が立っていた。

 「ごめんな、起こしちゃったか」

 「ううん大丈夫」

 一秀はそう言ったが、声の調子から明らかに眠いのが分かる。龍一はすぐに一秀を寝かせようと、そっと手を背中に寄せ佐紀子が寝ている寝室に誘導した。

 「お父さん病気なの?」

 「お父さん?ううん元気だよ。どうして?」

 「最近ゴホゴホって言ってる」

 「ああ、それはね、ぜんそくだからだよ」

 「ぜんそく?」

 「冬になるとせきをする、それだけ」

 「冬がおわったら?」

 「せきをしなくなる」

 「そっか」

 足取りと返事のおぼつかない一秀と一緒に、龍一は佐紀子の寝る寝室に入り一秀をそっと布団に寝かせた。

 「おやすみ」

 「おやすみ」

 

 【リーダーが出社しているのを、今月に入って見たことが無い。気になって聞いてみたら、先月末で離脱しているという。吉川は目眩がした。いくら非プロパーだからと言って、リーダーの離脱を知らせないなんて有りうるのだろうか。

 「吉川さん、約定画面なんだけど、3000件一気に更新できないのなんで?」

 業務チームの惣田からチャットメッセージが来た。そこの仕様はリーダーと調整をして運用で回避しようと決めたところだ。どうやらリーダーは業務チームと仕様を握っていなかったらしい。

 今月は長い戦いになりそうだ―――――――――。

 吉川は坂本にどうやって告げようか、】

 

 ごほっ、ごほっごほっ。

 龍一は発作が漏れないよう、布団を口に当てて必死で咳き込んだ。また一秀が起きてしまう。

 しばらくすると、咳が収まった。いつの間にか加湿器の音が聞こえなくなっていた。加湿器を確認すると、「E」のランプが点滅していた。随分時間が立っていたらしい。締切まで時間がないので、給水に向かう時間も惜しかったが、背に腹は代えられない。龍一は加湿器の給水タンクをそっと取り出し、風呂場に向った。

 

【リーダーになったはいいが、結局それは給与の高さとか、そうでないと年を取った時にやっていけないという虚栄心とか、そういう世間との柵の話であって、本当にシステムと向き合いたいわけではなかったのだ、ということを吉川はいやというほど思い知った。プログラムが動くのを見るのはなんとなく面白いが、ただ『なんとなく』である以上、必要以上に伸びる目の前のボックスのアニメーションには殺意しか抱けなかった。

 なんのためにこのボックスは伸びるのだろう。

 なんのためにこんなデータを書き込んでおくのだろう。

 なんのためにこんな仕様書をわざわざ書くのだろう。

 

 吉川がいつも抱いていた疑問に、今の吉川は答えが出せないでいた。】

 

 これで今月分の連載原稿は目処が付いた。空はまだ薄暗い。そうだ、今日は冬至だ。せっかくだから、今日はかぼちゃの煮つけを佐紀子に作ってもらおうか。

 そぼろタレがかぼちゃから垂れるシーンをイメージした瞬間、発作が来た。グエッホッホッと肺に響く音を立てて、龍一は咳き込んだ。冬はいつもこれだから困る。だが、不思議と冬になると執筆の調子が良くなる。咳のせいかどうかは知らないが、いつのまにか龍一にとって喘息は執筆の合図になっていた。今日は調子があまり良くない。一眠りしたら、多分原稿を書いたほうが捗るのだろう。

 龍一はグラスに残った水を飲み干し、布団についた。

 

 

 「お父さん、風邪なの?」

 一秀はランドセルを置いて母親に尋ねた。

 「原稿が終わって寝てるだけよ、でもあまり調子は良くないみたい」

 佐紀子は一秀に答えた。一秀は、そっとふすまを空けて中を見やった、父親は、時折苦しそうに咳き込んでいた。

 

 「咳がひどいみたいだね」

 「仕方ないわよ。あの人、病気だから」

 佐紀子はそう言いながら、カボチャを台所に運んでいった。